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アニメーションの散歩道

コロナ禍の合間に見た美術展

新型コロナ禍 デルタ株が一段落した’21年秋、やるなら今だ、アニメーション関係
催しが続きました。その後すぐにオミクロン株だったので、やれる内に開催したのは
正解。印象に残ったいくつかをレポートします。

 


ピーター・シス の闇と夢

ピーター・シス展 リーフレット

 


Peter Sis:Labyrinths and Dreams(直訳・ピーター・シス 迷宮と夢) ピーター・シス展
練馬区立美術館で開かれました。彼はアニメーターとして出発したのですが、日本
では絵本作家のイメージです。その理由がこの展示会で納得。アニメと絵本両方見ら
れたので。つまりイラストがすごい。筆者は息を飲みました。ただし人によっては「気持
ち悪かった」もろ拒否感示した人、あるいは「あのクジラの背中にニューヨーク市がある
絵、すごかったね!」感動を語る人も。筆者はニューヨークの自宅アパートを超現実的
に描いた絵にびっくり!そして彼の人生航路の波乱を知り、また興奮。

 

彼の作品にはその人生、足跡が大きな影響を及ぼしています。まず祖国チェコスロバ
キア、この国は第二次世界大戦3年後の1948年クーデタで共産党支配体制となりス
ターリン主義の圧政が続いていました。以後1989年のソ連崩壊まで人民は精神的に
も物質生活面でも苦しい時代が続いたのです。
しかし彼はその時代ではかなり恵まれた家庭だったようです。生まれたのは1949年、
共産党クーデター翌年の5月、モラヴィア地方ブルノBrno市に生まれてます。この街
は機関銃工業の中心地ですが、家族はそれとは無関係。父ヴラジミール・シスは映像
作家で政府の仕事をしていたとか。その関係で英仏旅行の経験もあった。外の、つま
り東西冷戦時代に鉄のカーテンの向こう側の世界も子に教えていたようです。祖父は
鉄道技師で一時期米国に在住。幼いピーターはお爺ちゃんがシカゴから持ち帰った
マンガや絵本に夢中になっていたようです。
つまり幼い頃から知的そして美的刺激に囲まれてた境遇だったのですね。親ガチャ
の逆。これって才能開花には大きいよ。

 

アニメーションで開いた道
長じて彼はプラハ工芸美術大を卒業、アニメーション作家への道を歩み始めます。
チェコでは昔から人形劇が盛んでそのつながりからアニメも発達していたのです。また
共産党もアニメーションは児童の精神育成に有用と見なし比較的自由な創作が認め
られていた。この現象は東欧各国に共通してます。その卒制アニメ「Mimicry」(擬態)、
ミロシュ・マツォウレク(1926~2000)の童話をアニメ化したようだが、抽象化映像が
筆者にはイマイチの感。国営スタヂオ クラートキーフィルム製作。
続いてアニメ「The Island for 6,000 Alarm Clocks」(6,000個の目覚まし時計の島)に
参加。なんとか検閲通ったけど、まもなくTV放送禁止処分。目覚まし時計は人間の
ためにベルを鳴らすがその度に人間に叩きのめされる。6,000個の目覚まし時計の島
のお話だったとか。この略筋を読む限り、テーマは虚しい努力を笑い飛ばした皮肉か
な?社会主義体制を皮肉ってると見なされたようだ。

 

規則に縛られた悩み
やがて学校では教わらないこともある、それが重要なのだと気づいた。ご禁制の外国
放送ラヂオをこっそり聞きかじるようになった。情報への飢え渇きを覚えたのです。転
機は33歳、1982年アニメ作品で映画祭賞を受賞。この功績でロサンゼルス五輪('84)
の記録映画撮影で米国に派遣された。
ところが訪米の翌1983年、ソ連と東欧圏諸国はロサンゼルス大会ボイコット決定。チェ
コスロバキアも追随、つまり祖国はソ連の命令に盲従したのです。彼は記録映画の
一環でロサンゼルスでアニメを作っていたが本国から帰国命令。

アメリカへ亡命 イラストレーターに
ここで人生の大転換、お上の指示を拒否。何をしろ、何を教えろ、何を描け、いちいち
指図されるのは嫌だ!クリエーターとして明確な意志を持った行動に踏み切った。
しかし資本主義社会での生活とは競争です。これまた厳然たる事実。ところが意外な
方面から助言が得られたのです。
彼は米西海岸のロサンゼルスに仮住まいしてたのですが、モーリス・センダック
Maurice Sendak から電話を受け、NYに移住。さし絵作家として生計することになっ
た。これが人生 2回目の転換。それにしてもセンダック(1928.6~2012.8)の名が出て
きたのには驚きます。ポーランド系ユダヤ人絵本作家で彼の絵本は「かいじゅうたち
のいるところ」「まどのそとのまたむこう」など日本でも何冊も翻訳されています。セン
ダックはシスのイラストレーターとしての才能に気づいた。「こいつは光るぞ」、正解!
こうして雑誌や新聞、書籍へイラストレーション提供、評価されるようになった。

東ヨーロッパの解放 絵本作家として大成
 その後1989年5月、満40歳で米市民権得。その半年後11/9、ベルリンの壁崩壊、
共産党支配体制崩壊。翌1990年シスも故郷を再訪。プラハで7年ぶりに家族と再会
できました。この年41歳でテリー・ラスタと結婚。彼女はハンガリー系ドキュメンタリー
映画の編集者。一女一男に恵まれる。以後シスはわが子のために描いた絵本秀作
が多い。
 幼い頃の日々をふり返った2冊の絵本『三つの金の鍵―魔法のプラハ』(The Three
Golden Keys) は愛娘のために描いた絵本。パパの故郷を知ってもらいたくて描いた
ようです。でも出版社に持ちかけても引受先が見つからない。彼らのセリフ、想像でき
ますね「絵本だろ、こんな地味なの売れないよ。こっちは商売なんだ」。そこにまた
意外な援助の手。ダブルデイ社の編集者だったジャクリーヌ・ケネディ・オナシスから
相談電話「シスさんはプラハにおられたそうですね。実はプラハの街の絵本を考えて
いるのですが」。これこそ渡りに船、「私、こんな絵を暖めていますが」。でやっと出版
('94年)。しかし彼女の名にもびっくり。結婚歴であまりにも有名な方です。最初の夫
は米上院議員、ついで大統領になった人。夫が暗殺された後、ギリシアの大富豪と
再婚。芸能ニュースを騒がしました。しかし彼女、浮名を流すばかりでなく、編集者と
しての審美眼は備えていたようです。
この絵本が面白い。古代クレタ島の未解読文字ファイストス円盤を思わせるような丸く
囲んだ城壁があります。迷路(ラビリンス)のような小路が入り組み、レンガと石造建物
が密集した街の鳥瞰図。筆者にっとては息づまる感じ。大陸の都市は古代からどこ
でも城壁に囲まれて発展してきました。日本人は歴史上ついに城壁街は作らなかっ
た。このプラハには松の植木や鯉の泳ぐ池や小川は見当たらない。でもやがて街角
風景の、まるで迷路遊びのような古い石壁建築が続く通り、漂う沈んだ空気に惹かれ
てしまうのです。
その逆が絵本「マットくんのしょうぼう車」シリーズ。坊やが消防車出動の度に夢中に
なり興奮してるのを見て描いた。男の子って幼い頃からメカニズム大好きなんです。
特に消防車は赤ピカ、ホースと車体の接続口、はしご、サイレン鳴らし出動。カッコ
いい!幼な児って地だんだ踏んで、よだれ流して喜ぶ。これは国籍を問わないね。
ここから始まった「はたらく自動車」絵本では多段式クレーン車をまるで首の長いキリン
のように描いていた。メカニズムを動物に擬化した楽しさ。
「マドレンカ」シリーズ絵本は娘のために描いている。様々な背景を持つ多人種の街
ニューヨークの魅力です。同時に全ての人々が同じにさせられている祖国への失望
の裏返しだったようです。

 

自宅ご近所スケッチ
まとも(?)なスケッチの方

 


 そのシリーズから発展した風景画(2000年)にびっくり。自宅のあるアパートとその
周辺、3~6階建てアパートがカタカナの「ロ」の字形にとり囲み、周囲は公道、中は
公園で植木林という構造のスケッチ画。自宅とその近所らしいが、妙に印象に残る。
もう1点はその中庭公園から見上げた仰角構図。ここには視点がいくつかあり、いろ
んな方向から見た周囲のアパート群のコンクリート壁と窓々の中に空と植木の先端
が見える。1枚の絵に景色を自分で構成し直してはめ込んでいる。型にはまらない
超現実の構図!これで風景画? 私はびっくり、笑いだし、そして「すごい!」


自伝絵本「かべ」
左の糸縫い製本デザインに注目
邦訳は福本友美子訳
 神戸市・BL出版(株)刊

 


政治思想宣言
次第に彼は自分の思想、価値観を絵本で宣言する欲求を自覚していったようです。
2007年の絵本「かべ― 鉄のカーテンのむこうに育って」は彼の自伝、そして人生観
の宣言です。これが力作。
まず本の装丁にびっくり。背にきちんと千枚通し、あるいは細いドリルで穴あけ糸括り
製本に見せている。まるで和風というか漢籍というかな? 米本国版がそのデザインで
以後の各国語翻訳出版も忠実にその糸括りの様を写真製版したようだ。こんな製本
が西洋にもあったとは初めて知った。
共産党独裁体制の息苦しい体験をまざまざと記録している。これだけは書き残して
おきたいという執念のほとばしり。同じ思想、善悪の価値観、行動に強制される息苦
しさ。私自身同じ思想と服装、行動に従わさせられる苦しさは職業人生で味わって
きました。もう感動し大きく共感。チェコの場合、クレムリン追従の共産党支配体制で
それがもっと強かったのだ。彼には自分で考える態度を掴まえる機会があった。実行
した。危険を犯したが。ただし絵本では監視哨サーチライトの光に照らされ自転車式
飛行機で飛んで行く、夢幻の感じだが、はてな?そのアニメーションもエンドレスで
再生されていた。なんとペタル踏みで翼をばたつかせて飛んでた。物理法則を考え
れば、あれでは絶対飛び上がれない。アニメ動かしも下手。とにかく動いて見せられ
たら急にしらけてしまった。この人イラスト畑の人だ。アニメ作家としての力量は欠け
ているな。
 彼を記録した映像も興味深い。2012年、63歳で国際アンデルセン賞を受けた際の
スピーチ「私は幼い頃、プラハの学校で自由に自分の感情を表わすことができません
でした。皆と同じように考えることを強制されてたのです」。クリエーターとして自分の
才能を殺してしまう体制を呪っていたのだ。

 その他の絵本も偉人伝シリーズでは探検家や発明家など、他人とは違う考え方を
持つ人たちを讃えています。抑圧に屈することなく意志を貫いた人々の生き様を自分
に重ね絵本化しています。ファンタジーの世界に逃げこんではいない。自由な思想
表現を志している。私は大きくうなづきました。



森まさあき退職記念展『おどるねんど』

 


 おどるねんど展リーフレット

 

 

 粘土人形アニメーションでユーモアあふれる独特の世界を見せてきた森雅彰さん、
2020年11月に65歳を迎え、翌年3月末日で長年教鞭を執ってこられた東京造形大
学の専任教員を定年、それからは非常勤講師になりました。この機会に自作回顧展
を同大学で開催。でも同大学は東京といっても西の端っこ山岳地帯、行くだけで大
変。時は秋、紅葉狩り気分でした。

まず森さんがこれまで作ってきたTV-CM、TV番組OP、NHKみんなの歌、などビデオ
で見せてくれます。「これも彼の作品だったのか」改めてビックリしたり。
「とんねるずのみなさんのおかげです OP」、お菓子TV-CM グリコ・明治製菓・ロッテ
など。NHKみんなのうたの人形では「私(森)もバックコーラスの一人になって歌いまし
た」とキャプション。キャストもこなす美声?

岩山リンゴのおしゃべり
昔、リアルタイムで見て感服したTV-CM「グリコ アメリカアップル」、久しぶりに再会。
米歴代大統領彫刻で有名なラシュモア山をパクった快作です。リンゴ畑、緑の木々
にはたわわに実ったリンゴ。生身のお嬢さんが元気いっぱい呼びかける(ここまで実
写)。クレーン撮影でカメラ上昇すると、さらに遠景の岩山。岩壁に刻まれた4つの巨
大リンゴが動きだし、人間顔になりおしゃべり(ここ粘土造形)。この間、同じフレーム
なのに日常(人間とリンゴ畑)と超現実が同じ空気の中にいる!画面がビリついてな
い。近くの石(?)が彫刻のおしゃべりで崩れ落ち、迫真力をいや増してる。すごい!
初めて見た時は楽しかった。でも「どうやって撮ったんだろ?」制作プロセス考え、
ゾッとしました。とんでもない手間ひま、お金がかかってるはずだ。
森氏談:
「人形アニメも人間と森林実写もモーションコントロールカメラ使いました。リンゴの生っ
てる時期を狙って、ニュージーランドでロケしてます。アメリカを謳ってニュージーランド
で撮影、今だったら問題になるかな?私も実写組と一緒にニュージーランドに行きま
した。タレントは川越美和さん。気立ての良い方でしたが、残念ながら2008年に亡く
なられました。撮影スタッフはカメラマンは日本人でしたが現地のスタッフも混じって、
簡単なモーションコントロールで移動撮影をしています」。
「その動きのデータを計算して、クレイ・アニメは日本のアニメーションスタッフルーム
社のアルファスペースでモーションコントロールカメラ撮影をしています」。
「今のように後から[マッチムーブ]でCGに簡単に!という時代ではなかったので、
何度もテスト撮影をしてデータ修正をして動きを合わせるのが大変でした」。
「またCMは30秒と15秒タイプがあり、リップシンクロするので、30秒と15秒のそれぞ
れを別テイクでアニメートしなければならなかったのも大変で30秒用に山からリンゴ
に変形させた後に、もう一度山に戻して15秒用のタイミングで山からリンゴへの変形
を再び撮影してます。1990年の作、制作会社は電通プロックス(現:電通テック)で
す。もう30年以上前ですよ。ディレクターは当時プロックスの社員の若い監督さんで
したね。プロデューサーを良く知っていたので、彼の紹介でキャラデザインとクレイ・
アニメーションを担当しました。私はアニメーション・ディレクター&アニメーターと
いうことになるかな?」

こういう発想を最初に映像化やってのけたのが凄いのです。今だったら簡単だ、という
のはコロンブスの卵です。NZ ロケなんていうとんでもない楽屋ネタまで聞けたゾ。

このリンゴ造形も展示されていた。これはやはり動いてこそ楽しい。粘土造形が静まり
置かれているのは、何かかわいそう。でも中には骨組み関節ボールベアリングを見せて
いるのも展示され、これは勉強になります。

企業秘密まで公開 粘土料理のレシピ

 

秘密兵器お料理(?)前の
粘土と道具

 


本人が使っている粘土まで公開。彼、以前は「この技法、材料は秘密です。ここにたど
り着くまでにずいぶん試行錯誤、苦労したのです」非公開主義でした。その態度に
反発する人はやっかみの悪口言ってたものです。評論家の森卓也氏は「いや、これ
だけの技術を持っていれば他人には言えないヨ。その気持はわかる」と理解を示し、
当時の「映画評論」に書いていた。その技術が、今こうやって公開されている。時代
が移り、大学の先生になり方針も変わったようです。
油粘土を使ってます。これは自然乾燥で固まる事がないため何度でも作り直しがきく。
ただし乾燥しないため保存性は悪い。ここまでは誰でも想像できる、問題はその先。
森氏談:
「日本の油粘土は子供用で口に入れても無毒ですがアートには使えません。いろい
ろ試した末に米国VANAKEN社の粘土が最上。基本25色を自分でブレンドして鍋で
加熱してから練って、その配合率を料理のレシピのようにノートメモしておきます。こ
れで自分なりの色、200色を作りました」。「使う道具は手製のワイヤーカッター、アク
リル樹脂製のばし棒(透明アクリルの管)、油絵用のペイントナイフ、粘土へら、ステン
レス細工棒、これは歯医者さんと呼んでます」。
・粘土商品名:PLASTALINA( プラスタリナ) 453g(1 lb) (1ポンド入)
     (MODELING CLAY-PA'TE MODELER) 着色粘土模型材料
 会社名:VANAKEN INTERNATIONAL
     BANCHO CUGAMONGA. CA91729 USA
かなり昔ですが(1996.7)、筆者との会話では
「ウィルビントンWill Vinton の使っている油粘土をトン単位で輸入してます。もう部屋
もベランダにも粘土を置いてますよ。希望があれば他のプロダクションにも卸売して
ます」。
今では輸入は大学生協にでも任せているのかな?クリエーターには輸入の事務手続
なんてやっかいですよね。

展示人形では

 

花王メリ-ズ うさぎ
背後にショット数え用番号札
照明台も兼ねている


▼花王メリ-ズ うさぎ 赤ちゃん用おむつTVCM
1996~2012年、人形制作・保坂純子、骨格制作・小前隆、アニメーターは峰岸裕和
と共同。人形骨格の各所にボールベアリングが関節として組み込まれて動かせる。
森「これだけは粘土人形ではありません。(対象商品イメージから)布や羽毛で作った
普通の人形です。ただこれを授業に持って行くと学生は“わぁ可愛い。さわってもいい”
と騒ぎだし、触りまくり、それだけで終わってしまうんです。なので授業には使わず、ここ
に骨格といっしょに展示しました」。

 

恐竜骨格を操る森まさあき氏


▼恐竜骨格人形(天井から操り棒と線でぶら下がっていた)
森さん脚立に登り操り十字棒を外し、恐竜を前後左右と上下させ、尻尾や顎骨、両足
動かして見せた。つまりマリオネットくぐつ操演。「私は動かすのが下手ですが」と言い
ながらもその全身がいかにも白骨の感じ、不気味(笑)。
▼「とんねるずのみなさんのおかげです」OPタイトル用 1992年
がじゃいも「走り用置き換え人形」 W52×D37×H23cm 下半身のみ走りの各動きを
8体作り、頭部に接続置き換えしてコマ撮りする
などなど、人形アニメ撮影のノウハウを惜しげもなく見せてもらえました。

金山 明博 遊画展

 

ビデオで自らの半生を語る
 金山明博氏


サンライズ派アニメ作家の半生記
金山氏のアニメ作家経歴は筆者の好みとはかなりズレます。でもその80年もの長い
人生をふり返った回顧展はやはり興味深かったですね。ただし会場は狭山市立
博物館、かなりローカル。熱心なファンでも不便だったんじゃないかな?

氏は1939.2/25 東京・四谷に生。世は世界大不況、 ノモンハン事件の年、軍国の
暗い時代でした。2歳で太平洋戦争、何もわからない年ごろで富山県へ縁故疎開。
その地で成長。日本中が貧しかった時代です。1957年3月18歳で県立冨山工業高
等学校卒。千葉県の鉄工所に集団就職。昼は工場で働く毎日。ここまでは平凡人
生。ここから先が違った。つまり夜、家に帰ってからはマンガ描いてたのです。


貸本マンガ・「摩天楼」と「街」
どちらにも後の時代を担った
青年作家が群れていた

 


貸本マンガ家としてデビュー
その頃、1950年代後半、下町には貸本屋さんというのがあったのです。お店番は
ご隠居さんとかお婆ちゃん。毒々しいマンガ本が置いてあり1冊1週間で10円、いや
筆者のいた田舎では5円だった、とにかく安いハシタ銭で貸し出したんです。生活が
貧しくメジャーな雑誌なんか買えない下層階級にとってはありがたい娯楽、そして文化
だったのです。でも世の識者からはひどい罵倒を浴びせられていた。「低俗マンガ」
「品性下劣」、はては「青少年を非行化させる」とまで。たしかに高尚じゃない。どぎ
つく人目を引く くるみ 表紙本でした。その中から次の時代を引っぱった革命児の群
が生まれたのです。世は高度経済成長の前期でした。

貸本マンガから生まれた革命 劇画派
さいとうたかお、佐藤まさあき、石川フミヤス、桜井晶一、辰巳ヨシヒロ、山森ススム、K・
元美津らが劇画工房を結成、1959年。それまでの子供ではなく青年を対象とした劇画
をはっきり宣言したのです。正統派少年マンガの巨匠手塚治虫先生は当時をこう回想
されています「劇画が貸本屋に溢れだし、ぼくの家の助手たちまでがニ十冊も三十冊
も劇画を借りてくるようになっては、ぼくも心中おだやかではない」(自伝「ぼくはマンガ
家」)。さらに同年白土三平の「忍者武芸帳」も刊行。とんでもないロングセラーになり
ました。この貸本マンガの世界から金山も身を立てたのです、工場仕事しながら。その
発表媒体が単行本形式の定期刊行劇画本「摩天楼」、「街」。1960年前後です。その
実物が展示され興味深かったですね。こういう歴史資料、意外と残ってないんです。
マンガ本は消耗品扱いされていました。江戸時代の浮世絵も同じだった。

マンガ家プロへ
これが大手出版社の目に留まり、金山もメジャー児童雑誌「冒険王」「少年画報」「少年
マガジン」に連載がかなった。ただその頃の絵柄は、どうもイマイチ。九里一平そっくり
なのは編集者の命令で渋々従ってたそうです。それにしてもキャラクターが生きてない。

アニメ界へ転身
彼の本領が伸びたのはさらにその後、1965年虫プロに入社してアニメーション界に入っ
てからです。つまり金山氏の才能はストーリーマンガ家ではなくアニメーターだったのだ。
同じマンガを描いてもその世界は大きく違う。
その後の活躍はファンの方々がよくご存知。サンライズで大活躍、世界的な大人気。
「超電磁ロボ コン・バトラーV」、「超電磁マシーン ボルテスV」「闘将ダイモス」…・
私があれこれ論評する資格はありません。

現役引退してからはアニメ専門学校の講師として学生を指導もしました。この時期で
は「落石~Rakuseki」がトムスエンタテインメント大賞やパリのアニメ・マンガ イベント
招待など各国ファンとの交流も楽しんでおられるようです

 

「かっとびアニメ丸」講談社
『コミックボンボン』
1985年5~8月号連載

 


展示では、現在のアニメーション制作各プロセス毎の職掌解説など教育的な解説も
多く、興味深いものがありました。「こんなのやってたの!」と驚いたのがマンガ「かっと
びアニメ丸」。アニメ監督の高橋良輔原作で金山はマンガ、アニメ界の楽屋落ちレポー
ト。このイラスト、16mmフィルム撮り時代の雰囲気、初号試写の緊張感がただよってい
る。でも二人とも実際のアニメ仕事が忙しすぎ、4話で終了しちゃったとか。

ヒロ アニメーション スタンド 公開

 

ヒロ アニメーション スタンド
東京都新宿区西新宿5-10-11



次はアニメーションでも作画後の工程仕事。撮影の故高橋弘さんのスタジオが一般
公開されました。故人は2021年11月80歳で逝去。故人の遺徳を偲んだ企画です。
ただこの住所の西新宿五丁目。ここらの路地は入り組んでいて方向感狂いましたね。
その行き止まり袋小路に2F建て、一部屋上ペントハウスのビルでした。アニメ・プロデュ
ーサー江本徳泉(えもと・とくせん 1970.10~ )氏の(株)一水と同居スタヂオ。

さして広くないステージに祭壇、故高橋弘氏の遺影にアニメ協、株式会社エッグ、
こぐま(あつこ)、ちょきパタ工房キむら木村光宏、rabiton box からの花束。
こぐま氏は前記森ねんど工房門下生の一人でドローイング(描画)、カットアウト(切り
抜き絵)、クレイなど多彩な手法でアニメーションを発表、各方面から高く評価されて
います。エッグは地引和夫氏のアニメーション・ポストプロダクション、つまり編集や
美術など後処理工程。ラビトンボックスrabiton box は映像の編集、アニメーション
作成、画像のデータ変換(HD、CAM、デジベ、HDV)など。
いずれもTV CMなどで活躍されてる顔ぶれで故人の仕事や交流を伺わせます。

 

スタヂオに掲げられた仮設祭壇

 


故人は撮影畑一筋で、同じ高橋姓のアニメ作家とは親戚筋でもない。
エンドレスで再生されていたのは故人紹介のビデオ。会社紹介目的で作ってたのを
活用したようだ。プロダクション外景、窓ガラスの看板(切文字)、この中で故人が若者
グループにパペット撮影を実務教育している。専門学校で撮影を教えた事はないの
ですが、卒業したての新人たちの自主作品を撮影している折のビデオだそうです。

ただしここでは2Dアニメも撮り、というより撮影プロはどこでもそうですがフィルム撮りから
スタート、ビデオ、デジタル撮りに入った(江本氏)。スキャナーは業界一般に普及して
いる「レタス」RETAS STUDIO NETソフト使用。
レタスとはセルシス社のアニメーション制作ソフトウェア、Revolutionary Engineering
Total Animation System の略称。直訳すると革命的アニメーション全システム技術に
なるかな?つまり作画・トレース・彩色・撮影の全工程をデジタル化した方式。

スタヂオ機器など備品はその後メルカリで売却処分したようです。この写真はありし日
の記録になりますね。部屋サイズと共に添付します。

 

スタヂオ平面図
かっての同社ホームページより


 


プロフィール

小松沢甫アイコン

小松沢 甫 (こまつざわ・はじめ)

日本アニメーション協会 会員・歴史部会
古いフィルムの発掘、保存、公開にも努力
研究は内外の専門書で引用紹介されている
論文に「太平洋戦争とアニメーション 今日も続
く1940年体制・意外で奇妙で厳然たる事実」、
「幻の東宝図解映画社」 主著「持永只仁の足跡・
運命をきりひらいたアニメーション作家」、共著
「キネマ旬報日本映画監督全集(1976)」「山形
国際ドキュメンタリー映画祭 '91 日米映画戦」
など