カルチャー系ウェブマガジン「ReadingParty」
もうそんなになるの?
今年は日本でアニメーションが作られるようになって100年目。その記念イベントが
各地で催されています。首都圏では京橋のフィルム・センターでの展示とビデオの
オンデマンド再生がわかりやすかった。もっともそれは日本映画史展示の一部として
の企画でした。でも国立機関としては画期的な取組。同館ではこの頃アニメーション
上映やPRリーフにもとり入れたりと意欲的。いいですね。
京都でも似たような、でもちょっと趣を変えた催しがマンガミュージアムでありました。
京橋のフィルム・センターでもPRリーフレットにアニメーションも採用
「攻殻機動隊」と「うる星やつら②」ですね
展示と上映、そして特別メニューの日に行ってきました。
この会場、私は初めてなのですが、外見がまるで小学校、美術館には見えない。と
思ったら「そうですよ、昔は小学校だったんです。その建物を利用したんです」。
納得。
京都ポスター「にっぽんアニメーションことはじめ」
第一部:無声アニメ『なまくら刀』の活弁上映
なまくら刀
この作品は日本最古のアニメーションの一つなのですが永年フィルムは散逸、もは
や見られないと信じられていました。ところが2008年に見つかっのです。フィルムの
一部が。フィルムセンターがこれと他の断片をつなぎ合わせ、4分の最長版を復元、
デジタル化もされました。この発掘って映画の神様が「日本のアニメファンは真面目で
あるぞよ。チャンスをつかわそう」微笑まれたのでしょう。
まずフィルムを発掘された研究家松本夏樹氏の解説。「古物商でお宝を見つけた
時“オッ”という顔をすると足元を見られ値段吹っかけられます。“別にどうでもいいけ
どついでにこれも買っておこうか”ぐらいの顔をするのが安く買うコツです。」(笑)
そして手回し映写機、活動写真弁士大森くみこ、鳥飼りょう両氏の解説と演奏で
上映されました。活動写真とは英語のmotion picture の直訳、つまり映画。弁士って
その解説者。無声映画時代、こんな仕事があったんですよ。日本だけの現象らしい
けど。
この日はフィルム版を昔の手回し映写機で映写。クランクを16f/s スピードで回しま
す。映画は時代劇。
いかにもアホ面の侍がだまされる。刀屋で「これは掘り出し物ですヨ」、なまくら刀を
買う。「よしこれで誰かを斬って切れ味を試してやろう」。アホが暇だとろくな事考え
ない。闇夜、人けのないのを幸い、大川端で辻斬り。哀れな犠牲者はめくらのあんま。
あんまってマッサージ師です。江戸時代、この仕事ははめくらの専業で健常者の就業
は禁じられていました。一種の社会福祉制度です。ところがこのあんまさん強かった。
反対に侍をコテンパにやっつけてしまう(私は“めくら”という言葉は差別語ではないと
信じています。その筋の糾弾は覚悟の上)。まるで勝新太郎座頭市のご先祖みたい。
へっぽこ侍、続いて街道筋で飛脚を襲撃。これもさんざんに叩きのめされ、あの刀は
よれよれ。なまくらを証明。この後半エピソードはシルエット表現で、作者の意図が
今一つ不明。ともあれ弱いものいじめをノックアウトする楽しさがあります。
第二部:トークイベント「渡辺泰、国産アニメーション100年を語る」
トークイベント 左から新美ぬゑ、森下豊美、渡辺泰の関係各氏
アニメーション史研究の大家渡辺泰先生の講演。中味の濃いレクチャーでした。
去年は「君の名は。」「この世界の片隅に」が大ヒットとアニメーションが大きな話題に
なりました。その翌年、2017年は日本アニメーション誕生100周年になります。その
割にはマスコミは意外と無関心ですね。朝日が1面で特集したくらいかな。NHK・TV
では“アニメ業界はブッラク企業”とまで放送してます。
日本で作られた最初のアニメーションはマンガ家だった下川凹天(へこてん)の「凸
坊新画帳 芋助猪狩の巻」です。その頃アメリカの短編アニメが何本も輸入公開されて
いました。映画館で劇映画の前に漫画1本を添え物として上映してたのです。いずれ
も“凸坊の新画帳○○の巻”とタイトルされていました。その頃マンガで男の子を
凸坊、女の子を茶目子と名づけるのが一般的で、その流れでアニメーション映画が
凸坊新画帳となったようです。
日本でもマンガ映画を作ったらもうかるんじゃないか、映画会社がマンガ家の下川
凹天に注文。彼は経験もないけど引き受けます。公開が1917(大正6)年1月とまでは
わかっています。でも日にちが不明。つまり日本アニメは誕生日がわかっていません。
とにかく100年前です。それらのフィルムは関東大震災でほとんど焼けてしまった。
残っていません。
この「なまくら刀」は同じ年6月公開でやはりマンガ家の幸内純一と前川千帆(せん
ぱん)の作品です。キャラクター絵を切り抜いて別に描いた背景画の上に置き、コマ
撮りしたようです。幸内はマンガ雑誌『東京パック』で知り合った下川凹天にノウハウ
を教えてもらったようです。舞台は江戸情緒ある木場当たり。侍は浪人でしょうか。
♡マークの吹きだしの中にセリフ文字「さあ、何か切ってやろう…」♡で期待感を抱かせ
てるし、後では☆マークも使ってます。最後はアニメなのに吹きだし文字「人殺し」と
入ってます。
現在のマンガ表現の先駆だったとの指摘。面白い着眼点。なお渡辺氏は侍を
浪人と判断されていますが、私は直参旗本の二男や三男、つまり部屋住み侍かなと
推測。刀を買う時即金で支払ってる、ちょんまげ頭の月代(さかやき)をきちんと剃って
いる、一応羽織袴のコスチュームなのが理由です。
また展示物で幸内純一の名が“じゅんいち”となっていました。私は訓読み“すみ
かず”ではなかろうかと質問。展示責任の新美ぬゑ氏「いえ、ジュンイチです。同時代
刊行の資料全部にそうなっていました。ただ後で自分のアニメプロダクション作った時
スミカズ映画社 と名のったので、そっちが本名だと勘違いしている人が多いのです」
しかし私には疑問。ジュンイチはマンガ家としてのペンネームで自分のアニメプロを
創立するにあたり親戚筋の出資を仰ぎ、本名を使うに至ったのではなかろうか。マンガ
は個人作業でもアニメ製作は共同作業。動画切り抜きや撮影の助手を雇いカメラ購入、
あるいはレンタルと資本が必要。出資者から「君もお父さんからいただいた名前をいつ
までもふざけて名のってはいかんよ」やんわり注意されたのではないでしょうか? ペン
ネームは日本でも江戸時代既に普及していました。例えば十返舎一九、写楽…。
でも昔は社会一般にユーモア感を一段下に見下げるムードが漂っていました。また
地名や人名は漢字訓読みが一般的。
こういったやり取りも含めて楽しい催しでした。私はその晩、二段ベッド8人相部屋
の安ホテル泊まり。友人の中には「これから大阪行って深夜喫茶で夜明かしですワ」
の人も。アニメ仲間はたくましいのだ。
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日本アニメーション協会 会員・歴史部会
古いフィルムの発掘、保存、公開にも努力
研究は内外の専門書で引用紹介されている
論文に「太平洋戦争とアニメーション 今日も続
く1940年体制・意外で奇妙で厳然たる事実」、
「幻の東宝図解映画社」 主著「持永只仁の足跡・
運命をきりひらいたアニメーション作家」、共著
「キネマ旬報日本映画監督全集(1976)」「山形
国際ドキュメンタリー映画祭 '91 日米映画戦」
など
2022.5.26
2021.9.16
大塚康生 逝く
2021.3.9
2020.9.14
2020.3.22
2019.11.25
ヒロインはアニメーター
2019.5.7
2019.2.23
トークとピアノ演奏で観る映像作家
高橋克雄の世界
2018.9.6
2018.6.25
2018.3.18
2017.11.3
100年目だよ、アニメーション
2017.7.15
2017.4.30
2017.2.24
2016.12.5
アニメーションを徹夜で見よう会
珍作、快作、感動作いっぱいの交流会
2016.10.14
広島へ行ってきたよ アニメお祭り
第16回広島国際アニメーションフェスティバル
2016.7.13
「お父さんどこに行ったの? オランダからの発信
ファーザー アンド ドーター Father and Daughter」
2016.5.10
「幻の人形アニメーション」
2016.3.21
「オーケストラでアニメを見たよ」