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アニメーションの散歩道

大塚康生 逝く

アニメーション史 忘れられたウラ話
「小松沢クンはアニメーションの歴史を調べているそうだね。だったらエイケンの
前身がTCJ だった事は知ってるだろ」。ある日、大塚康生氏がおもむろに切りだ
しました。私「はい、たしかTelevision Corporation of Japan とかいって外車
輸入のヤナセの子会社だったのは知ってます」。氏「そう、あそこは意外と
ルーツが古くてその前は ななおらテレビ と言ってたんだ。森川信英(のぶえ)
の個人プロダクションで、あそこが『シンテリア城の花婿』なんてのを作ってたな、
下請けで。そしてその前身が 芦田漫画映画製作所、あの芦田巌(あしだ・いわ
お)のプロダクションだね。けっこう昔からあったんだよ」。

 

ありし日の大塚さんと愛車。工業学校土木科卒業の
経歴もあり熱狂的な4駆車マニア。マイカーも4WD中古車
を探しては乗りまわしていた。室内にこもる作画仕事の
反動かな? 1997年5月、小松沢撮影


 

アニメーション史、その意外な裏話をさらりと語っていた方でした。
その時代を生きていたからこそ知っていたのです。いや同時代人でも意識の
ない人には気づけなかった流れです。アニメ作品とは実制作プロダクション名、
実作画スッタフ名までタイトルされているのはまれで、関係者の証言がない限り
後世には不明のままになりがち。ここで言ってた“シンテリア” とは1954年モー
ション・タイムズというアニメ史の上では一発屋会社の作品。狂犬病予防注射PR
映画でおそらくスポンサード短編。私は大昔に見てますが、出来はひどかった。
箸にも棒にもかからない程度だったのを覚えています。また森川信英も芦田プロ
とは完全に離れたわけではなくその後も芦田の動画スタッフとして動いていま
した。
TCJは当初はテレビ受像機輸入業だったそうです。国産家電メーカーとの競争
に破れ業務を転換、TVアニメCMの下請け製作に乗り出したそうです。その過程
で芦田や森川の弟子筋を引き抜いたようです。自主企画短編第1作が「蜜蜂
マーヤの冒険」1954年芦田いわお監督、これもひどい出来。リアルタイムで見て
た私は断言します。さらにTVアニメにも乗り出し、第1作が1963年「仙人部落」
「鉄人28号」。一般にはこれからがエイケン史として知られています。
大塚康生氏は日本のアニメーション作画界で初めて作画監督と呼ばれた方
で、また東映アニメーション、当初は東映動画でしたが、その生き字引でも
ありました。その氏がエイケンの幼年期まで詳しくご存知だった。驚きです。

 


突然の電話
筆者と大塚氏の出会いはもう50年近くも昔。ある日、私の勤務先に電話が
ありました「オオツカ ヤスオです、動画の」。私「え? 動画の大塚さん? 大塚
コーセーさんなら知ってますが」。先方、笑って「そのコーセーが私ですヨ」。
筆者「えっ、あの漢字、ヤスオと読むのですか!」。あせった。だって周りもコー
セーさん呼ばわりしてたんです。「君のホルスの文、見ました。書いてくれて
ありがとう。一度ウチへ遊びにいらっしゃいヨ」。思いがけないお誘い。私が
同人誌に書いた「太陽の王子 ホルスの大冒険」評を読んで頂いていたの
です。作画監督を務めた大塚氏「この小松沢ってのはどんな人?」当時の
Aプロ スタッフ「この人、サラリーマンですよ。名刺もらってたな、あ、これだ」
で私への電話となったようです。


次の日曜日、和光市にお住まいの大塚氏宅を訪問。いろいろ昔ばなしを根
掘り葉掘りお聞きしました。氏がアニメ界に入るまで、けっこう波乱に満ちた
人生だったようです。というより東映動画発足の1956年7月ではこの業界、
実にマイナーな狭い小さな世界だったのです。一般人は入りこめなかった
のです。

 

 

戦時中の大冒険
驚いたというより呆れたのが、氏の少年時代、太平洋戦争も敗戦をはさんだ
1945年4月から10月、およそ半年間、家出して鉄道沿線スケッチ旅行して
いた冒険談。もっともほとんど日帰り家出だったようですが。それでも山口の
自宅を抜け出し、戦時中に完成したばかりの関門トンネルを抜け北九州に
入り、はるばる熊本まで踏破(?)してたとか。山口市は山の中の盆地、当時
は工場も少なく空襲に遭わず。八幡は今も昔も重工業都市。米軍の原爆
投下候補地。通常爆撃は免れていた。そんなわけで社会インフラがとにかく
維持されていた。そんな事情も小さな冒険者には味方してくれたようです。
しかし時代は極端な食糧不足の日々、切符買うにも許可が必要だったはず。
私「食べ物はどうしてたんです? 切符だって買えなかったでしょう」当然の
疑問です。
大塚さん「さあ、どうやってたかなあ、あの頃、なんか鉄道員に可愛がられてね、
あちこちで世話になってた。機関区には戦時中にも特別に食糧配給があって、
干し芋や乾パンをもらってたな。汽車にもタダで乗せてもらいましたね。運転席
脇とか車掌室なんかに。これがその時の絵です」。なんと蒸気機関車運転席
から見た機器配置のスケッチ。
氏14歳、つまり今の中学2年生ですよ、軍国主義に染まった学校なんかに浸
らず、脱走してた。もっとも学校の先生には怒られ殴られ、廊下に立たされたり、
つまり問題児だったようです。しかし、いやあ・・・生活力あるう! 私、ただただ
脱帽。その汽車のスケッチ画も細密な鉛筆画で動力の駆動と伝動システムに
かなり興味持ってたメカニズムおタク少年だったようです。これってアニメ界に
入ってから大きな力になりましたね。あの「ルパン三世」のマシン描画ですよ。

学校出て(?)厚生省(当時)に入り、麻薬取締官で本物のピストルをドンパチ
撃ってたのは有名です。この経験もルパン三世に活用されてますね。ただし
警視庁に出向いての練習射撃だけで、実戦(?)はしてないとか。でも本人は
この時期が一番辛かったようで「絵とは関係ない仕事ばっかりでね。せいぜい
事件現場の記録スケッチなんか描かされてた」。

 

 

居場所を見つけた天才、アニメの世界
インタビューで最大の収穫は東映動画発足時から各年度ごとの新入社アニメー
ター氏名一覧表。手書き一覧表を見せていただき私は大興奮、筆写しました。
また労働組合結成の努力で発行していた同人誌「アニメジャーナル」も貴重な
史料。お借りしてコピーしましたよ。今でも大切に保管しています。

 

 

ガリ版同人誌「アニメジャーナル」
つまり鉄筆で原紙を切っていった謄写版印刷です。
表紙絵は職場仲間の石井元明。この似顔絵がケッ作。
最上段大川博社長、下列中薮下泰司監督、その上山本早苗動画スタヂオ所長。
1964年後半(?)発行。結局この第2号が最終号になってしまった。

 


職場同僚アニメーター奥山玲子さんは毎日違う服装で東映動画に出勤してた
そうです。そこで大塚さんと仲間の角田紘一さんの2人が彼女のファッションを
こっそりスケッチ日記。その一部が氏の自費出版「大塚康生のおもちゃ箱」に
載ってます。
このストーカー(?)にはさらに後日談。NHKドラマ「なつぞら」でうまくアレンジして
見せてましたね。「なっちゃん、昨日と同じファッションだね、何かあったの?」
と昨日のスケッチ画を見せる。「ヤッだあ! いつの間に私のこと描いてたの」。
こちらはそのウラ話を知ってるのでニヤニヤしながら見てました。

 

 

「大塚康生のおもちゃ箱」
A4版カラー刷りの豪華本だが自費出版同人誌なので
当時一部の人にしか配布されなかった。(1996/12刊)
「小松沢様 大塚康生」のサイン入り。
このpart 2 も16年後、半分のA5版だが発行されている。


氏が1969年6月、東映を追い出された経緯も本人から聞くと迫力あった。ホルス
に大感激してた私は息を飲んで聞いたものです。しかし氏が当時東京ムービー
の下請け作画していたAプロダクションに入社してからTVアニメ全般が大発展
したのです。歴史の皮肉。大塚さんありがとう。(Aプロは現在シンエイ動画、東京
ムービーは現在トムスエンタテインメント)

 

 

映画監督全集の思い出
この出会いがきっかけになり、1976年12月発行のキネマ旬報「日本映画監督
全集」では私が大塚氏の項を書くことになりました。でも編集部内ではいろいろ
トラブったようです「マンガ描いてるんだろ、映画監督ではない。それなのにウチ
の本に入れるのか、範囲を広げ過ぎだぞ」。後で聞いた話です。でもアニメーター
各人は個性があります。逆に作画そのものは孤独な作業。そんな大勢のスタッフ
が関係する仕事では動画のキー役がいなければキャラクターがカット毎に変わっ
てしまう。かくして作画監督という職掌が必然的にうまれたのです。今では誰が
作監してるか、アニメを見る時には大切なポイントですよね。
キネ旬からは名鑑なので客観的な事実だけを書くように言ってきました。でも
それだけではもったいない。どうしても私の激情があふれました。「わんぱく王子、
壮絶な空中戦・・・ホルス、人民の団結を熱っぽく訴え・・・興行は惨憺たる成績
・・・パンダコパンダ、愛らしい小品佳作」と。また同じ本で故 高畑勲の項も
私が書いたので大塚さんを側面チアー。「…東映動画を相前後して退社
した同僚・大塚康生、小田部羊一、宮崎駿とコンビを組んだ作品に佳品が
多い」。今にして思えば小田部、宮崎の両巨匠をメジャーなメディアで正しく
評価した先駆でしょう。

 

大塚さんの名入れ印刷便箋。
歴代の4駆愛車イラストが入っている。
キネ旬原稿取材時(1975年10月)にいただいたお手紙で
「小生と話すときは必ずノートを持参のこと」。

はいインタビューはキチンとメモしてレジュメを書きました。

 

その大塚さん、お亡くなりになりました、2021年3/15、享年89歳。心から
お悔やみ申し上げます。コロナ禍の時期です。葬儀も身内で済ませました。

 


追悼会 吉田シゲさんの思い出話
後日6/28、偲ぶ会が杉並公会堂で開かれました。協賛に㈱テレコム・アニメー
ション、㈱トムス・エンタメ、シンエイ動画㈱、㈱スタジオ・ジブリ、日本アニメー
ション㈱、などなど業界主要メンバー、後援者にはかって故人を追い出した
東映も顔出していました。大塚さんの功績を無視できないのです。
参列者の思い出話では東映時代の同僚、吉田茂承(しげつぐ)氏のお話、
かなり興味深く聞き入りました。故人の戦時中の冒険旅行の裏づけです。
引用しますネ。
私は旧制山口県立工業学校時代に大塚さんと知り合って以来のおつき合い
です。あの学校は尋常小学校6年卒業後に入学した5年制、今でいう中高一貫
校です。1944年4月に入学してまもなく、休み時間、黒板に残ってたチビたチョ
ークで落書きしてたんです。突然、後ろから声をかけられた。「何だお前も絵を
描くのか。ウチも描くんだよ」。隣りの組の大塚さんとの初めての出会いでした。
これがきっかけで仲良くなり、いっしょに写生に出かけるようになったんです。彼
の趣味の蒸気機関車につき合い、住んでいた山口市から国鉄機関区のある
小郡町まで歩いてSL 描きに行きましたよ。あの頃、雑嚢(ざつのう)と言いました
が、ショルダーバッグにおにぎり入れて歩いたんです。彼は機関士なんかと
すぐ仲良くなりましてね「そこは(スケッチのディテール構造)少し違うんじゃない」
とか機関車のパーツを専門用語使っておしゃべりするようになったんです。や
がて、帰り道、山口へ行く機関車運転室にこっそり乗せてもらったこともありまし
た。途中駅に停まると駅員に見つからないように床にしゃがんで隠れたり。
山口駅に着いてからどうやって駅構内から外に出たのかは覚えてません。
まさか改札口を堂々と抜けるわけにはいきませんからね(笑)。機関車の釜
(ボイラー)に芋置いて、焼き芋にして食べさせてもらった事もあるなあ。
戦後は山口にも米軍が進駐してきて、やはり大塚さんといっしょにキャンプ(駐
屯地)に行きました。GI にGive me chocolate チョコレートねだったものです。
大塚さんはジープに惹かれ、早速スケッチ始めました。初めは側面画、次に
正面画、背面画、やがてアングルつけた斜め画まで描くようになった。将校用の
乗用車も描くようになり、車ボンネットの丸味も描いてた。ここまできて「こりゃあ
ボクの手には負えない」。つくづく彼の画才にはため息。ついに彼、フェンダー
カバーやボンネットに写ってる(背景の)路地風景まで描きこむようになってね。

会場で出会った友人アニメーター 竹内昭氏の感想「いやぁ、あの吉田さんの
話、面白かった。あの人、吉祥寺の古本屋ギャラリーで風景スケッチ個展やっ
てましたね。仕事、演出だったのか。でもあのお歳ではもう無理でしょうね。
演出って結構ハードですから。特に納品直前とかには」


故人の著作
故人は絵ばかりでなく文章力にも勝れ、著作もいくつかあります。
中でも「作画 汗まみれ」(1982/12 アニメージュ文庫)、「ジープが町にやって
きた」(2002/7 平凡社ライブラリー)の文庫本2冊、今でも入手しやすいかな。

 

「ジープが町にやってきた」
少年期のスケッチを配した楽しい表紙、中垣信夫装丁。
大塚さんはプラモデル・タミヤのボックス・アートでも名をはせた。
その原形でしょう。

 


プロフィール

小松沢甫アイコン

小松沢 甫 (こまつざわ・はじめ)

日本アニメーション協会 会員・歴史部会
古いフィルムの発掘、保存、公開にも努力
研究は内外の専門書で引用紹介されている
論文に「太平洋戦争とアニメーション 今日も続
く1940年体制・意外で奇妙で厳然たる事実」、
「幻の東宝図解映画社」 主著「持永只仁の足跡・
運命をきりひらいたアニメーション作家」、共著
「キネマ旬報日本映画監督全集(1976)」「山形
国際ドキュメンタリー映画祭 '91 日米映画戦」
など