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アニメーションの散歩道

イギリスからの質問 !?

そもそも
私はアニメーションのファンですが、その歴史、技術表現の発展の歩みを
自分の目で確かめたいという希望も大きいのです。その研究をあちこちで
発表してきました。
以前、このホームページ仲間の本田美禧さんなどと『CINEMATHEQUE』
という映画同人誌も発行しました。その雑誌で故・瀬尾光世氏を特集した
号があります。近年マスコミで話題になった「桃太郎海の神兵」の監督
です。あの敗戦直前の大作です。私も健筆(?)、意外に皆さまから好評を
いただきました。中にはイギリス在住日本人からの注文もあり、航空便で
郵送したものです。

 

問題の『CINEMATHEQUE』。編集・イラスト本田美禧。

写真1.問題の『CINEMATHEQUE』。編集・イラスト本田美禧。
瀬尾作品について論じたのは渡辺泰先生と私。2009年10月刊

 

 ところが昨年末になり、その圭室元子(たまむろ・もとこ)氏を経由してジョ
ナサン・クレメンツというイギリス人から私の論文への質問がきました。その
返答で一件落着なのでしょう、普通なら。でもその質問がかなり妙な文面。
どうも民族間の常識の差といった問題があるようです。そのやり取りを公開
します。


 

まだお会いしてないイギリス人?

 ジョナサン・クレメンツJonathan Clements 氏、1971/7生(46歳)、リーズ
大学で中国語と日本語を勉強、ウェールズ大学で博士号。アニメ業界で
音声監督、脚本家として従事。The Anime Encyclopedia(アニメ大百科)や
Anime:A History(アニメ業界史)の著者であり、欧米における日本アニメ
評論の第一人者だそうです(圭室氏の紹介及びWikipediaによる)。
彼は現在「桃太郎海の神兵」のBlue-ray に含まれる本(ブックレットらしい)
を執筆中で、小松沢論文の存在を知り、瀬尾光世につき実に有益な一次
資料だ、ついては小松沢の見解を聞きたい、との質問メールです。

 

「桃太郎 海の神兵」製作開始を告げる戦時中の雑誌記事。

写真2.「桃太郎 海の神兵」製作開始を告げる戦時中の雑誌記事。
イラストは黒崎義介。(「映画」1943年10月号 資料提供渡辺泰)

 

 

奇妙な質問も
ただその質問は私の目から見ると奇妙であっけにとられたのも事実。
つまり普通の日本人なら疑問に思わないような個所、あるいは余計なお世話
というか、無礼だな感じた言い方もあります。ただ異民族ではこういう疑問も
持つのか、と教えられましたが。

 

質問1.どうして瀬尾監督のことを書こうと思ったのか?
まるで私に対する思想動向調査のような言い方で、ちょっとア然。
でも突っぱねては溝は埋まらない。丁寧に説明しましたよ。
つまり瀬尾光世監督は日本アニメーション史上の偉大な先駆者の一人で
あり、彼の作品は折に触れ公的機関で回顧上映されている(具体例をあげ
説明)。私は生前の瀬尾先生と親しく交際いただき、いつかは氏の足跡や
作品を文章で記録、再評価しておきたいと思っていたからです。
まるで小学校の先生が生徒に教えるような回答になっちゃいました。

 

質問2.どうやって瀬尾監督と知り合ったのか?
この質問も余計なお世話的な感じ。アニメーション研究家の私が有能な
クリエーター(瀬尾監督)と交際するのは当然ですよね。それに私も友人知人
とどういうきっかけで知り合ったかまで、覚えていません。でも記憶の奥底
までたどり「こんなきっかけかだったかな」みたいな回答になりました。
40年以上も昔ですが、日本アニメーションの歴史を調べておこうと決心。
あちこち昔の関係者を訪問(押しかけも多かったな)、インタビューし、その
メモをレポート化し発表、それが認められて交際が拡がり、といったプロセス
でした。その中でも特に杉本五郎(映画フィルムコレクターで映画史研究家)、
政岡憲三(日本アニメーション界の最大巨星)、薮下泰司(アニメ監督)、持永
只仁(人形アニメ監督)といった各氏が私と瀬尾氏との橋渡しをしてくださった
のか、といった旨を述べました。

質問3.個人的に瀬尾監督をどう思うか?
やっとまともな質問になってきました。
まず持永氏の言葉を引用「瀬尾さんのアニメは、絵そのものが動きを感じ
させる、生きています。自由奔放でのびのびした動きです。これがアニメの
楽しさです」。
そして私自身の感想:彼の絵は上品です。擬人化された動物キャラクター
各員が幼児好みの親しさがあります。彼は戦前の困難な時代環境下で赤字の

アニメーションを作らせてくれ、とスポンサーを探し、たどり着いたら、

ある程度はスポンサーの意向に沿った体裁をとり、その中で自分の良心を

込め、実験を続け質の向上に努めていったのです。

 

アニメーション仲間と談笑する晩年の瀬尾光世監督。

写真3.アニメーション仲間と談笑する晩年の瀬尾光世監督。
(1985年11月 小松沢撮)

質問4.「海の神兵」再リリースの後、批判的な反応があり、瀬尾監督
が悩んでいたと聞きましたが、どんな反応だったのか?

これについては私の論文「太平洋戦争とアニメーション 今に続く1940年
体制」である程度論じています。そこから一部引用しました。
つまり朝日新聞1984年6/26、小林信彦のコラムと週刊「朝日ジャーナル」
1987年3/27号米津篤八投書を紹介。前の小林文については「見ないで
書いてる。これは評論以前の雑文、床屋談義だ、私は断言しています。
米津文については、あの戦争とマスコミ、文化人特に映画人の対応につき
論述し、反論しています。
更に引用、「この他に瀬尾には個人的嫌がらせが相次いだようです。
本人自身がうんざり、筆者(小松沢)にこぼしていました」。
この”嫌がらせ”の具体的内容までは聞いていません。私は瀬尾氏に
「現在は言論の自由が保障されている。その安全地帯にいる人が時代
条件をも考えずに勝手に吠えているのです」と返答し力づけたものです、
と補足しました。

質問5.瀬尾監督の自宅の火災で「海の神兵」に含まれなかった映像
が一部焼けてしまったそうです。これがいつだったか覚えていらっ
しゃいますか?

この事件については私まったく関心がありません。つまり完成した作品とは
関係しなかった部分だからです。
私の信条ですが、作者とは完成した作品についてのみ責任があり、観客
は完成以前あるいは途中経過の抱負や意図は評価すべきではありません。

 

質問6.映画の中の交渉シーンで英語を話す声優がいますが、どう
やってその声優を探したのか? 捕虜を使ったのか? これはこの
映画制作についての最後で最大のミステリーです

この質問には、私かなり驚きました。しかも追伸で「この質問は、私(クレ
メンツ)自身がイギリス人から聞かされたものです」と言ってきました。つまり
マジに問いかけているんです。
しかし私はもともと関心がなかったのですよ。瀬尾先生に質問もしません
でした。私の感覚ではアテレコの技術的な関心はあります。でも声優の名
などは些細な問題。作品そのものの完成度こそが問題だと信じています。
ただしあの程度の英語力を持った人は戦時中とはいえ、かなり日本に
いたはずです。
つまり外国貿易商社社員、NHK対外宣伝放送関係者、自由インド仮
政府日本駐在員などと例を挙げ説明しました。ただし外務省関係は民間
企業の業務には協力しなかったとも。
「捕虜を使ったのか?」は最もナンセンスな質問。戦時中の日本では
捕虜を映画に協力させることは考えられなかった。日本軍はそもそも捕虜
が民間人と交わるのを厳禁していたからです。軍は捕虜を単なる肉体労働
力としてのみ利用したそうです。第一次大戦期の日本軍はそんなバカな
事はせず、捕虜が収容所近辺住民と交流するのも認めていたそうですが。

私の結論
このようにお答えしました。改めて読み返すと、かなり私個人の映画への
信条が基本にあります。反発なさる方もおられるでしょう。補足すれば
映画とは一般公開された時点で完成とみなし、作家はその公開版につき
責任を負う、観客は公開版を評価するのです。外から「あの作家は」と勝手
に意図をあれこれ言う、邪道です。
「海の神兵」で迎撃され戦死した偵察機クルーの葬儀、弔銃シーンが
軍命令、監督の意図無視でカットされた事は私も承知しています。だから
といって「海の神兵」は中途半端な作品ではありません。あの困難な時代、
よくぞ作ってくれた。名作です!
むしろクレメンツ氏が見たディスクには、私が昨年、広島レポートで指摘
した「YesかNoか」の威嚇セリフ、敵兵ポパイの手からほうれん草カン詰が
ポロ落ちするショットが残っていたのか? そちらの方が気になります。松竹
では再公開に当って自主カットした様です(推測)。あそこにはアナクロの
楽しさがあり、時代資料としても重要なのです。

 

 

プロフィール

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小松沢 甫 (こまつざわ・はじめ)

日本アニメーション協会 会員・歴史部会
古いフィルムの発掘、保存、公開にも努力
研究は内外の専門書で引用紹介されている
論文に「太平洋戦争とアニメーション 今日も続
く1940年体制・意外で奇妙で厳然たる事実」、
「幻の東宝図解映画社」 主著「持永只仁の足跡・
運命をきりひらいたアニメーション作家」、共著
「キネマ旬報日本映画監督全集(1976)」「山形
国際ドキュメンタリー映画祭 '91 日米映画戦」
など