カルチャー系ウェブマガジン「ReadingParty」

トップバナー
Mikiki タイムトラベル

明治時代のクリスマスと日本初のサンタクロース小説
「さんたくろう」について🎄

日本初のサンタクロース小説「さんたくろう」とサンタクロース研究家・松本冨士男先生
の事を知ったのは、横田順彌氏の「明治不可思議堂」(ちくま文庫)を読んだ時だった。この本は明治時代の人物や面白いエピソードを紹介してある本で、その中の「さんたくろう物語」では、明治時代に初めて日本人主催で行われたクリスマスの祝会や日本最初のサンタクロース小説「さんたくろう」の事が簡潔に書かれていて興味をそそられた。

 

サンタクロース研究家という人々にも興味を持った。前述の松本冨士男先生は東海大学教授でキリスト教史が専門のようだ。また、「世界のサンタクロース」(1971年 社会教育協会)の著者・片山五郎氏は、英米文学の専門家で、愛知県立大学教授であった。日本でクリスマスの研究が始まったのは1970年代初頭という事なのでこれらの先生方は、クリスマス研究者のはしりという事になるだろう。

 

「明治不可思議堂」表紙

図版1「明治不可思議堂」著者:横田順彌 1998年 ちくま書房

  • 明治以前のクリスマスと日本初のクリスマスツリー

松本冨士男(他)編集の「クリスマスの招き」(1983年 燦葉出版社)によると日本初のクリスマスは、1552年に山口県で行われたという事である。フランシスコ・ザビエル(1506年~1552年)は日本にキリスト教を伝えた人物として有名であるが、その滞在期間は2年3カ月で、その間クリスマスを祝ったと考えられるが、残念ながら記録には残っていない。

 

文献に残っているものは、ザビエルが去った後、日本に残っていたトルレス司祭やフェルナンデス修道士によって行われたもので、当時クリスマスは、ポルトガル語で「ナタラ」と呼ばれていた。1552年12月25日(天文21年12月10日)に信者たちは司祭館に集まり、明け方までデウス(天主)についての朗読を聞き、歌ミサを行った。翌朝のミサの後、宣教師達は、信者のために食事を用意し、それ以外の貧しい人々にも食事を分け与えたため信者が増えたそうである。また、1560年(永録3年)には豊後府内(大分県)で初めて日本人信徒による宗教劇が行われた。宗教劇は西洋中世でも盛んで、朗読するだけより、聖書の物語を劇にして見せた方が効果的で、布教にも役立った。

 

しかし、豊臣秀吉による「バテレン追放令」(1587年)や1612年から翌年にかけて出された江戸幕府による「禁教令」によってこうした活動は潜伏していった。江戸末期になると禁教令も緩和し、開港場居留地に於ける外国人の信仰の自由が認められた。この頃、プロシアからオイレンブルグ(1815~1881年)が東方アジア遠征艦隊の司令官兼全権使節として来日した。「オイレンブルグ日本遠征記 下」(訳:中井晶夫 1969年 雄松堂書店)によるとオイレンブルグは、日本で初めてクリスマスツリーを飾った人物で、1860年12月にオイレンブルグのクリスマス会に招待された外国人や日本人達は天井まで届くほどのきらびやかなクリスマスツリーやたくさんの贈り物に圧倒されたそうである。ドイツのクリスマスの習慣はここでも人々を魅了したのである。

 

クリスマス どうやって日本に定着したか」表紙

図版2 参考文献「クリスマス どうやって日本に定着したか」

著者:クラウス・クラハト/克美タテノクラハト 

1999年 角川書店 日本に於けるクリスマスの歴史を丁寧に調べた良書である。

  • なぜ12月25日がクリスマスなのか?

クリスマスとは、「キリストのミサ」を意味する。キリスト教の草創期にはクリスマスの祝祭は存在せず、聖書にもキリストが生まれた日は記されていないが、西暦354年に教皇リベリウスがキリスト生誕の日を12月25日に設定した。ローマ帝国がキリスト教を国教としたのは、西暦392年。テオドシウス帝の時である。それ以前のローマ帝国はミトラ神への信仰が盛んであった。太陽神であるミトラ神は再生し、12月25日には若い太陽神を崇める「無敵の太陽」と呼ばれる祭儀があった。ローマカトリック教会が、キリストの誕生日を12月25日と定めたのは、ミトラ信者をキリスト教に取り込もうとする政治的意図があったと考えられる。

  • 聖ニコラウスからサンタクロースへ

サンタクロースの原点は聖ニコラウスだと言われている。聖ニコラウスは3世紀に小アジア(トルコ)で生まれた聖人である。聖ニコラウスについてのエピソードは多く、破産したため身売りをしなければならなくなった三人の娘の家に金貨の入った財布を投げ入れたり、肉屋に殺されて塩漬になった子供達を生きかえらせたり、船乗りを暴風雨から救ったりしている。毎年12月6日は聖ニコラウスの祝日で、聖ニコラウスがろばと供に空からやって来て良い子に贈り物をすると伝えられている。聖ニコラウスへの信仰が盛んなのは、フランス北部と東部、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリア及びドイツ語圏のスイスである。12月6日の夜、子供たちは眠る前に暖炉の前に木靴を置き、疲れたロバのために干し草やニンジン、聖ニコラウスのために一杯のぶどう酒を用意しておく習慣が見られる。

 

子供たちは聖ニコラウスからリンゴ、梨、くるみ、オレンジなどの果物を贈り物として受け取り、祝祭日用の香料入りのパンや砂糖菓子などを食べた。1517年にマルティン・ルターが出した「95カ条の論題」によって、宗教改革が始まり、プロテスタントが誕生した。
プロテスタントはカトリックの聖人崇拝を認めていないが、新教国となったオランダは、海洋国でもあるため、船乗り達の守護聖人である聖ニコラウスへの信仰は強く残った。

 

1653年にアメリカに渡ったオランダ人たちによってニューアムステルダム(植民地時代のニューヨークの名称)が作られた。オランダ本国のアムステルダムと同様にこの都市の守護聖人も聖ニコラウスであり、聖ニコラウスへの信仰がアメリカへ伝えられた。聖ニコラウス(セントニコラウス)は、オランダでは、「シンタクラース」と呼ばれ、それが「サンタクロース」と変わっていった。

 

「サンタクロースとクリスマス」表紙

 図版3 参考文献「サンタクロースとクリスマス」著者C.ルパニュール

 監修:渡辺義愛 訳:今井裕美子 /加藤行男 

「クリスマスの文化史」表紙

1983年 東京書籍 「クリスマスの文化史」著者:若林ひとみ 2004年 白水社

  • アメリカに於けるサンタクロースの誕生

聖ニコラウスサンタクロースの原型とされるが、僧衣を着ていかめしい感じがあり、現在のサンタクロースとは違っている。現在のサンタクロースのイメージを作ったのは、コロンビア大学の神学教授のクレメント・クラーク・ムーア(1779~1863年)であった。

 

1822年のクリスマス近いある日、ムーア博士は近隣の貧しい家に配る七面鳥を買いに出かけた。しかし、博士の気持ちはすぐれなかった。博士の長女で七つになるチャリティーが乗っていた仔馬もろとも崖から落ちて怪我をしていたからである。怪我も重かったが愛馬を失くしたチャリティーの心の傷はさらに大きかった。この時、博士の馬ゾリの御者は、オランダ人・ピーターであった。ピーターは、陽気な性格で太ってバラ色の頬をしており、あごひげは雪のように白かった。ピーターは、子供達を守り、贈り物を与えてくれる聖ニコラウスの話をして、博士を慰め力づけた。

この話にインスピレーションを受けた博士は「聖ニコラウスのおとずれ」という詩を書き、チャリティーに読み聞かせた。詩では8匹のトナカイにひかせたソリに乗り、子供達に贈り物をするサンタクロースの姿が歌われていた。博士が描いたサンタクロース像は、御者のピーターをモデルにしていて、陽気で太っていて、雪の様な白い髭を持ち、赤い服に白い毛皮、背なかにはおもちゃの入った袋を背負っていた。この詩は、1年後の1823年12月23日にニューヨークの「トロイ・センチネル誌」に発表され、多くの人々に読まれた。

 

この日、我々になじみ深いサンタクロースが生まれたのである。風刺画家のトーマス・ナストは、ムーア博士の詩に影響を受け、1862年にハーパーズ・ウィークリー誌でサンタクロースのイラストを発表した。ナストは、1860年代から80年代にかけて毎年サンタクロースのイラストを発表し続け、アメリカ生まれのサンタクロースの容姿や服装のイメージが世界中に広まった。そしてこのサンタクロースのイメージは、1920年代にはノーマン・ロックウェル、30年代にはコカコーラのイラストレーター、ハッドン・サンドブロムに受け継がれていった。

  • 原胤昭による明治8年のクリスマス

明治時代のクリスマスに話を戻すと、それまでは外国人がクリスマスの祝会を開き、日本人は招待されるという形だったが、明治8年に初めて日本人主催のクリスマスの祝会が開かれた。「植村正久と其の時代」第二巻(佐波亘編 1938年 教文館)によると原胤昭(はらたねあき)という人が、明治7(1874)年に築地の東京第一長老教会で洗礼を受け、その感謝の印として、翌年の12月に原が経営する銀座の女学校で開いたのが始まりだという。

 

原は美しく蜜柑で十字架を飾り、天井から吊り下げたが、米国公使館の館員が「これはカトリックがやることだから」と注意し、撤去したそうである。米公使館では、日本人が間違ったヘンな事をやらないか心配していた様である。プロテスタントは十字架を飾らないのである。しかし、撤去した後が淋しいので、は造花を飾ろうとしたが、当時はそのようなものがなく、浅草の簪屋で花簪(はなかんざし)を買い集めた。クリスマスツリーも飾った。これは会が始まる前から見せては興が無いため、落とし幕を取りつけ、一同をアッと言わせようとしたが、やはり当時は大きな幕が無かったので、近所の新富座へ交渉して芝居の幕を借りたそうである。サンタクロースは、純日本風にやろうという事で、裃(かみしも)を付け、刀を差し、大森カツラ(しゅろで作った粗末なカツラと言われている)をつけた殿様風のいかめしい姿だったと言われている。「このクリスマス会は東京市に於ける一つの名物となった」と後に数寄屋橋協会の牧師になった田村直臣は記している。

 

山田風太郎は、原胤昭を主人公とした時代小説「明治十手架」を1986年から1987年にかけて読売新聞夕刊に連載したが、残念ながらクリスマス会の事は載っていない。しかし、が明治7年、銀座に「十字屋」というキリスト教関係の書店を開いたのは事実で、これはの他、戸田欽堂、戸川銭花の3人が共同で設立し、十字架にちなんで店名を「十字屋」とし、銀座3丁目に店舗を構えた。やがて経営は倉田繁太郎に譲り、倉田の代に楽器も扱うようになった。現在「銀座十字屋」は楽器店として知られている。同じ明治7年、フェリス女学校の創立者であるメアリ・エディ・キダー女子が「生徒全員を家に招き、夫のローゼィがサンタクロースになって贈り物をあげる予定」と書簡に書いている。お菓子を作り、キャンディをプレゼントし、ゲームをするなど正しいアメリカのクリスマスの祝い方を生徒に教えようとしたのだと思われる。

 

「明治十手架 上下巻」表紙 

図版4「明治十手架 上下巻」著者:山田風太郎 1988年 読売新聞社

  • 日本最初のサンタクロース小説「さんたくろう」 

日本で最初のサンタクロース小説は、明治33年に発行された「さんたくろう」(著者:新藤信義 1900年12月30日 教文館)である。これは日曜学校の子供向けの教材として書かれたもので、1枚だけではあるがサンタクロースの挿絵も載っている。そのストーリーだが、主人公は峰一という8歳の子供で、家は農業を営み、両親ともにクリスチャンである。

 

冬の寒い日、峰一と父は、雪の中で生き倒れになった旅人を助けた。旅人は峰一たちの祈りによって奇跡的に命を取り留め、花井村の井口五平と名乗った。お礼を言う五平に対して父は、天の全知全能の神様に感謝するように諭し、キリスト教の神様の事を教えた。
「じゃ何ですか、私どもが日々拝んでいるのは、あれァ偽(うそ)の神様でござりますか」
「さうです。いかにも偽(うそ)です」
五平は、体も回復し、3日目に帰っていった。翌年、峰一の父が病気になり、病気は神様への祈りで回復したが、半年以上も農業を休んでしまったため、家は貧乏になり、クリスマスが来ても峰一に何も買ってあげる事が出来ない。父と母の心は重かった。そうした時、クリスマスイブの晩に、昨年助けた花井村の五平が、米俵、洋服、おもちゃ。絵本等を持って現れた。五平はクリスチャンになって恩返しをしたのであった。五平の贈り物には、1枚の紙が付けてあった。
よく神様の教えを守り、阿(お)父(とつ)さんを助けて旅人の生命を助けたり、誠に感心な子でありますから此の贈り物を上げます。 北國(ほくこく)の老爺(おやじ) 三太九郎(さんたくろう)

 

この小説は、サンタクロースを知らない子供達にサンタクロースの存在を知らせようとする当時の苦労が偲ばれる。峰一の父は、日本の八百万(やおよろず)の神を「偽の神」としているし、全知全能の神に祈れば死にそうな人が奇跡的に回復するというのもキリスト教的なイデオロギーを感じるが、かえってそこがユーモラスに感じられ、全体的にはのんびりした心暖まる印象を受ける。特に父が病気で死にかけた時に「阿(お)父(とつ)さんは天国に行く」と言うと幼い峰一は、よくわからないままに「僕も一緒に行きたい」と言う。母親がたまりかねてわっと泣きだし、一家で涙ぐんでいる所に、牧師さんが「御免ください」「どうかなさいましたか」と言って入って来るタイミングがとてもおかしかった。「病は気からと言うじゃないですか」など間の抜けたノーテンキな会話もおかしい。ぜひ劇にしてもらいたいものである。

 

また、サンタクロースの正体は、花井村の五平で、普通の人というのが面白いし、現在のイメージと異なっている。「さんたくろう」は、聖ニコラウスのような聖人でもないし、ムーア博士が描いた妖精のような存在でもない。前述のサンタクロース研究家の松本冨士男先生は、このタイトルからサンタクロースの事と気付くまでに1年以上の歳月を要したそうである。「明治時代の人生相談」(編著者:山田邦紀 日本文芸社)を読んでいたら商人からの質問があり、長男の太吉が学校の先生から「太吉さんはおとなしいからきっと三太九郎がお土産を持って行くだろう」と言われ、毎日待っているそうである。この商人は、「三太九郎のような知らない人がお土産を持って来るわけはない。かように偽りを教える先生のところにはやりたくないがどうしましょう」と言っている。この相談を読むとやはり小説「さんたくろう」は「サンタクロースを日本人に親しみやすいものにしたとしてもリアルに描きすぎたかな」と思うのであった。

 

「さんたくろう」表紙

図版5「さんたくろう」挿絵 さんたくろうが連れているのがトナカイでなくてロバである。松本冨士男先生は、ウォルター・クレイン(イギリスの挿絵画家)の影響があると書いている。

 

その他の参考文献
「銀座物語」著者:野口孝一 1997年 中公新書
「學燈」第87巻第12号  記事P18~P23「日本最初のサンタクロース」著者:松本冨士男

 

 

プロフィール

本田 未禧 (ほんだ・みき)

イラストレーター
学習院大学文学部史学科卒業。デザイン会社「アール・プロジェ」やアニメーション製作会社「シャフト」で働く。

1990年テレビ東京「水木しげるスペシャル」のアニメ美術を担当。1994年キャノンカレンダーコンテスト入賞。日本図書設計家協会に入会。
2004年アニメーション研究同人誌「シネマテック」発行。2006年「JA通信」のイラストを描く。2010年洋泉社のムック本のイラストを描く。
2011年から「東京展」出品。2013年日本グラフィック協会に入会。「現創展」のキャラクターアート部門で金賞受賞。2014年日本図書設計家協会退会。