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Mikiki タイムトラベル

文学と映画1  若草物語2

前回、「若草物語」のタイトルについてと「若草物語」四部作のストーリー、そして「マーチ家は本当に貧乏か」について書いたが、少し補足しておきたい。

 

まず、マーチ家にハンナというばあやがいる点だが、「若草物語」の背景となっている1860年代頃は家事が機械化されていなかったので、食事の準備や洗い物、洗濯やアイロンかけに時間がかかった。自動車も無かったので、上流家庭は馬車を所有し、馬の世話をする馬丁が必要だった。


召使いの賃金は安く、上流階級ではない貧しい中流の家庭でも一人ぐらいは雇う事が出来た。「若草物語」第一作でメグとジョーが、ガーデナー家の舞踏会に招待された時、メグは履きなれない舞踏靴のために足をくじいてしまう。困っていたところ、ロレンス家のローリーが馬車で送ってくれるが、これは舞踏会に出席しているほとんどの人が上流階級で、自家用馬車を持っているのである。メグとジョーは、自家用馬車を持っていないし、馬車を雇えばお金がかかり、夜遅いために馬車屋に行くのもたいへんで困っていたのであった。

 

また、メグが16歳という年齢でキング家の家庭教師をしているのは、上流の家に生まれながらも生活を支える十分な資産を持たないためで、本来なら階級的に同等であるはずの雇い主の下で働く事は、親しい家であってもそれなりに辛い事であっただろう。「若草物語」の著者、ルイザ・メイ・オルコットも作家として認められ、生活が安定するまでは家庭教師、メイド、裁縫などをして収入を得ながら小説を書いていた。

 

「ルイザ・メイ・オルコット 若草物語への道」

図版1 「ルイザ・メイ・オルコット 若草物語への道」編者:師岡愛子 

1995年 表現社 

 

  •  ルイザ・メイ・オルコットのおいたち

ルイザ・メイ・オルコットは1832年11月29日、ペンシルバニア州のジャーマンタウンで生まれた。

 

父は、エイモス・ブロンソン・オルコット。コネチカット州の農民の子として生まれ、行商をしながら独学で勉強し、ルイザが生まれた時は、ジャーマンタウンで学校を開いていた。母は、アッバ(アビゲイル)・メイ。父親のジョーゼフ・メイ大佐はボストンの名家の一員で、アッバは当時の女性としてはかなりの教育を受けていた。2人は1930年に結婚し、翌年長女のアンナが誕生した。ルイザは次女である。35年に三女・エリザベス、40年に四女・メイが生まれた。「若草物語」と同じく、四姉妹であった。

 

  • 父・ブロンソンとオルコット家の貧乏について

ルイザは、「若草物語」によって多額の印税を得るまでは、常に経済的な不安と闘ってきた。母の実家であるメイ家は、裕福で金銭的な援助をしてくれたため、父が普通に学校経営に専念していれば、金持ちでなくても中流以上の暮しは保つ事ができ、アンナやルイザも少女の頃から働かなくても希望する学校に行けたであろう。

 

一家がずっと貧乏で引っ越しを繰り返したのは、父の一風変わった教育方針や一つの思想に夢中になると回りの意見を聞かなくなる性格にあったと思われる。特に1834年から39年までボストンで開いたテンプル・スクールと43年6月から44年1月まで約6カ月にわたってフルートランズで行った実験的共同生活が結果的には失敗したため、借金を抱え込み、一家は貧困に陥った。


しかし、後にブロンソンは、超絶主義の哲学者、教育家として評価され、1959年にコンコードの学校教育長に任命された。超絶主義とは、19世紀初頭にアメリカで広まったロマン主義的思想運動で、人間の中に神的なものの内在を認め、神や自然と交流し、直観によって真理を追求する思想である。

 

ブロンソンは性善説を信じ、教室を絵や植物で飾って居心地の良い空間を作り、子供たちと話し合いながら授業を進めていったので、テンプルスクールは、最初は評判が良かったが、自費出版した「福音書についての子供たちとの対話」という本の中で、出産や誕生の仕組みについて詩的とはいえ子供たちに語った事や黒人の生徒を入学させた事から生徒数が激減し信用を失った。当時としては進歩的すぎたのであろう。

 

また、イギリスの超絶主義者・チャールズ・レイン等と始めた実験的共同体は、コーヒー、紅茶、乳製品を取らない菜食に徹し、朝の冷水浴や家畜を使わない農耕などかなり質素で禁欲的であったため、家族はついていけなかった。ブロンソンは、理想が高く、心や精神を重んじるあまり、働いてお金を得ることに無頓着で軽視する傾向にあったため、アッバは夫に頼らず、仕事を見つけて働くようになっていった。だが、基本的に家族仲は良く、「第三若草物語」ジョーが開いたプラムフィールドの学園は、父の学校を参考に書かれている。 

 

「ルイザ 若草物語を生きたひと」
図版2 「ルイザ 若草物語を生きたひと」著者:ノーマ・ジョンソン

訳:谷口由美子 2007年 東洋書林

 

  • ルイザの作家デビュー

オルコット家は貧乏であったが、文化的には恵まれていた。超絶主義者であった父は、本を多く持ち、ラルフ・ウォルドー・エマソンナサニエル・ホーソンヘンリー・ディヴィド・ソローなど当時一流の思想家や文学者達とつきあいがあって、特にエマソンからは、時々金銭的な援助も受けていた。

 

ルイザは祖父・メイ大佐の図書室のある屋敷に滞在したり、エマソンの家に遊びに行って勉強を教わったり、ソローの教室に通ったりすることで創造的な感性を高め、15歳ぐらいからは、自分で脚本を書いて、姉妹で芝居を演じた。1851年、18歳の時、ルイザの書いた「日光」という詩がピーターソンズ・マガジン9月号に掲載された。これが公に発表された最初の作品で、翌年、雑誌「オリーブの枝」に小説「恋敵の画家たち」が発表された。また、最初の単行本「花の妖精物語」が54年12月19日に出版され、ルイザは、母にクリスマスプレゼントとしてこの本を贈った。これは、ルイザが16歳の時、エマソンの娘・エレンのために書いた物語であった。「若草物語」の裕福な老紳士・ジェームス・ロレンス氏は、メイ大佐がモデルとなり、「続若草物語」に登場するベア先生は、ルイザの少女時代の初恋の人であったエマソンがモデルと言われている。

 

  • 三女・エリザベスの死と姉・アンナの結婚

母のアッバが「貧民救済使節」(現在のソーシャル・ワーカー)の仕事を始めたため、1848年にオルコットの一家は、ボストンに引っ越した。そして、57年10月にコンコードに買った家に移り住むまで、都会のボストンで暮らした。

 

ルイザとアンナは学校(私塾)で教えたり、家庭教師や針仕事をして家計を助けた。これは、ルイザが15歳から24歳の時である。「学校―100ドル、針仕事―10ドル、『花のおとぎ話』―35ドル」ルイザは日記に54年度の収入を書いている。ルイザの日記には、仕事の収入や原稿料などが書かれていて、当時の貨幣価値を知るのに役に立っている。

 

決して裕福ではなかったが、アンナとお芝居をしたり、券をもらって演劇を見に行ったり、講演を聞いたり、伯父やいとこの素敵な屋敷で夏を過ごしたりなど楽しい事も多かったようだ。だが、三女のエリザベス(ベス)が猩紅熱にかかって以来、身体が弱り、58年3月に23歳の若さで亡くなってしまった。家族はベスのためにコンコードの古い家を購入し、リフォームしていたが、間に合わなかったのである。この家はオーチャード・ハウスと名づけられ、84年まで住んだ。ベスが亡くなって約2年後に仲の良かった姉のアンナが結婚したことでルイザは2人の姉妹を失った寂しさを感じていた。

 

  • ルイザ、南北戦争の従軍看護婦になる

1861年4月に南北戦争(1861~1865年)が勃発した。ルイザは「奴隷解放のために戦っている北軍の兵士の役に立ちたい」、「何か新しい事を体験したい」という気持ちを押さえきれず、看護婦に志願して62年12月にワシントンに向かった。

 

ルイザが働いたユニオンホテル病院の衛生状態はひどく、負傷兵が廊下やロビーにまであふれ、毎日が1日12時間の重労働だった。ルイザは精一杯働きながら、眠る時間を削って戦時下の町を見に行った。

 

だが、チフスにかかって重病となり、迎えに来た父に連れられてコンコードに帰った。

ルイザが看護婦として働いたのは40日間だったが、回復するのに何ヶ月もかかった。しかし、この経験をもとに書いた「病院のスケッチ」(63年8月出版)が大評判となり、作家として認められ、原稿の依頼が来るようになった。

 

「ルーイザ・メイ・オルコットの日記」
図版3ルーイザ・メイ・オルコットの日記」2008年 西村書店

 

  • 約1年間のヨーロッパ旅行と若草物語の誕生

「病院のスケッチ」の成功とそれに続く執筆のおかげで、63年は、600ドル近く稼ぎ、収入の多くを借金の返済と家族の必需品の購入にあてた。

 

65年の7月から、貿易商の娘で病身のアンナ・ウェルドの看護と付き添いで約1年間のヨーロッパ旅行をした。最後の2ヶ月間は、アンナ・ウェルドと分かれて自由行動を取り、楽しんだ。旅行中に知り合ったポーランドの青年・ラディスラス・ヴィシニェフスキーが「若草物語」のローリーのモデルとなっているようである。

 

帰国後の67年、ルイザは、児童雑誌「メリーズ・ミュージアム」の編集長に任命され、ボストンに下宿した。同時に多くの物語も書いたので、年収は、目標の1000ドルに達した。

 

68年の5月、ルイザは、コンコードの実家で、編集者のトマス・ナイルズ氏に頼まれたアメリカの普通の家庭の少女の日常生活を描いた物語に取りかかった。この作品が「若草物語」(Little Women)となる。ルイザは自分の家庭をモデルとして、姉のアンナをメグ、自分をジョー、エリザベスをベス、一番下の妹のメイ(MAY)の綴りの順を変えてエイミー(AMY)とした。マーチ夫人は、母のアッバ・メイである。メイ(五月)を小説では、マーチ(三月)と変えて、メイ家の事を描いたのであった。

 

編集者のナイルズ氏は、この物語がどれだけ売れるか全くわからなかったので、自分の姪とその友達に読んでもらい、感想を聞いた。「みんな夢中になって読んだ」という事だったので、ルイザと契約し、10月1日にロバーツ・ブラザーズ社から「若草物語」が出版された。翌年の4月14日には「続若草物語」が出版され、ルイザは人気作家となり、愛読者がオーチャードハウス(コンコードの家)を訪れたり、記者に追い回されるようになった。「第四若草物語」で人気作家になったジョーのエピソードは、この時のルイザの実体験が生かされていて興味深い。  続く

 

プロフィール

本田 未禧 (ほんだ・みき)

イラストレーター
学習院大学文学部史学科卒業。デザイン会社「アール・プロジェ」やアニメーション製作会社「シャフト」で働く。

1990年テレビ東京「水木しげるスペシャル」のアニメ美術を担当。1994年キャノンカレンダーコンテスト入賞。日本図書設計家協会に入会。
2004年アニメーション研究同人誌「シネマテック」発行。2006年「JA通信」のイラストを描く。2010年洋泉社のムック本のイラストを描く。
2011年から「東京展」出品。2013年日本グラフィック協会に入会。「現創展」のキャラクターアート部門で金賞受賞。2014年日本図書設計家協会退会。