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映画と文学   
ニコライ・ゴーゴリ「ヴィイ」と「妖婆死棺の呪い」2

  • 子供の時読んだ偕成社の「妖女・死人の家」で初めて「ヴィイ」のことを知った

前回に引き続き、ロシアの怪奇文学を紹介しているが、私が ニコライ・ゴーゴリの「ヴィイ」を初めて知ったのは、小学生の頃、偕成社から出ていた子供向けの本を読んだ時であった。

 

「妖女・死人の家 ロシアの怪奇名作というタイトルの本で、ロシアの文豪たちによる7本の短編が収録されていた。本のタイトルとなっている「妖女」「ヴィイ」のことで、「死人の家」は、レーミゾフという作家の小説である。他にもゴーゴリの「外套の復しゅう」「悪魔の肖像画」チェーホフ「黒衣の幽霊僧」プーシキン「スペードの女王」「がい骨の亡者」が入っていた。本の訳と翻案は、推理小説雑誌「宝石」(1940~1964年)の創刊に携わり、48年から52年まで編集長を務めた武田武彦氏(1919~1998年)によるもので、武田氏は、名探偵ホームズシリーズや江戸川乱歩作品なども子供向けにディライトしている。そのため「妖女・死人の家」の作品セレクトが子供の本にしては、シブく、少々マニア向けのところがあったのかもしれない。

 

表紙イラストと挿絵は、斎藤寿夫氏(1914~?)で、斎藤氏は江戸川乱歩や横溝正史の子供向けの本や「少女パレアナ」等のイラストも手掛けている。この本を読むきっかけとなったのは、美人度は少し薄いが、斎藤氏の怖そうな妖女の表紙イラストによるところが大きかったと思われる。   

 

図版1「怪奇名作9 妖女・死人の家」訳:武田武彦 色絵・挿絵:斎藤寿夫 1973年 偕成社

 

  • 「妖女・死人の家」に収録されている作品を紹介

簡単に収録作品を紹介してみたいと思う。ゴーゴリの「外套の復しゅう」は、下級官史のアカーキー・アカーキエビッチが少ない給料を節約して外套を新調するが、おいはぎに奪われてしまった。アカーキエビッチは役所の長官に訴えるが、冷たくあしらわれ、そのことから病気になって死んでしまう。アカーキエビッチは幽霊となって人々の外套をはぎ取り、長官の外套も奪うといったゴーゴリらしい皮肉の利いた作品であった。おかげで幽霊といえばアカーキー・アカーキエビッチという小学生には難しい名前を覚えてしまった。

 

同じくゴーゴリ「悪魔の肖像画」は、呪われた名画にまつわる話で、貧乏な画学生であるチャルトコーフは市場で、悪魔のような鋭い目つきの老人が描かれた1枚の肖像画を手に入れた。夜になると絵の老人が、額から抜け出して、金貨を勘定する。夢かと思ったのだが、金貨の入った袋は実在し、そのお金でチャルトコーフは、一流の画家として売り出した。有名になり、上流階級の仲間入りをしたチャルトコーフだったが、美術団体から送られてきた無名の画家によって描かれたプシケの絵を見て、自分の才能に絶望し、自殺するといった話であった。この後、老人の肖像画を描いた画家の息子が、人々に不幸をもたらす悪魔の絵を処分するために、絵をゆずってもらい、姿を消した。という後日談もあった。

 

チェーホフ「黒衣の幽霊僧」は、大学教授のゴブリンが休養のために養父の田舎に行き、人々に蜃気楼を伝って現れる黒衣の僧の話をする。黒衣の僧は、ゴブリンにしか見えないが、その姿を見るたびに次々と不幸が訪れる。黒衣の僧は実在するのか、病気の幻覚によるものなのか、病的な異常心理を扱った小説で、小学生には少し難しかった。

 

プーシキン「スペードの女王」のストーリーは、愛と金銭欲がからんでいて、少し大人向けである。工兵士官のヘルマンは、老伯爵夫人が、カルタに勝つ必勝法を知っていると聞き、カルタの秘密を話すようにと迫る。銃をつきつけて脅しているうちに伯爵夫人が急死するが、葬儀の夜、伯爵夫人の幽霊がヘルマンの前に現れて、3,7,1の順でカルタを張るように言う。勝負に出たヘルマンは勝ち続けるが、最後の勝負でカードを引くと、1のカードがいつのまにかスペードの女王に変わっていて、賭けに負けたヘルマンは、発狂する。スペードの女王の冷たい微笑にゾッとするラストであった。

 

「骸骨の亡者」は、生者と死者との交流を描いた作品である。棺桶屋のアドリアンは、引っ越しして新しい店を構えた。向かいの靴屋から銀婚式のパーティに誘われたので、娘2人と出かけると、赤ひげの巡査に「あんたも亡者の健康を祝ってみたら」と言われた。笑われてかっとなったアドリアンは、「お世話になった亡者を呼んで祝うつもりだ」と言い返す。その晩、亡者達が本当に押し寄せて来て、騒ぎ出すといった怖いながらもユーモラスな話で、訳者の武井氏が、もっとも好きな作品だそうである。

  • レーミゾフの「死人の家」が一番怖かった

7編の中で、子供であった私が、一番怖かったのが、タイトルとなったアレクセイ・M・レーミゾフ「死人の家」であった。このレーミゾフ(1877~1957年)という作家は、他の著者ほど有名でないので、少し説明したい。レーミゾフは、1877年にモスクワの下町の商人の家に生まれたが、両親が離婚したので、母の実家で育てられた。厳格な宗教的雰囲気の中で育ち、青年期に何度か聖地巡礼におもむいている。1896年にモスクワ大学在学中に学生デモに加わり、逮捕されて、流刑される。98年にも労働運動に加わって、流刑されたが、その後、革命運動から手を引き、文学の道に進んだ。処女作「池」や代表作「十字架の姉妹」等の小説は、暗い神秘的な幻想小説で、民間の伝説や民話から取材した話も多い。1921年にロシア革命を非難してパリに亡命し、文学活動を続けた。

 

「死人の家」は、「犠牲」というタイトルで、創元推理文庫「怪奇小説傑作集5」などで読む事ができる。そのストーリーだが、ロシアの田舎町にボロジン家という金持ちの家があって、主人のニコラーエビッチと妻のパーブロバナ、3人の子供達が幸せに暮らしていた。ある時、妻は4人目の赤ちゃんを産むために実家に帰った。夜、夫がさびしそうに墓地に向かっていく夢を見た妻は、「夫が死ぬのではないか」という不吉な予感にかられて「神様。夫の命を助けてください。夫さえ生きていれば、3人の子供も赤ちゃんもいりません」と叫ぶ。家に戻ってみると火事で家が焼けおちていて、夫も子供達も助かっていたが、その日から夫の性格が変わり、すっかり陰気になった。鶏を絞めることと死体を見る趣味がひどくなり、ボロジン家は「死人の家」と言われるようになった。火事から12年後(注1)、赤ちゃんだったソーニャも12歳になり、長女のリーザが結婚した。クリスマスの前夜、長男のミーシャがそりの事故で死ぬと、それが不幸の始まりで、モスクワに新婚旅行に行っていたリーザが死に、次女のジーナも病気で死んでしまう。次々と続く不幸にパーブロバナは12年前に見た夢のことを思いだした。あの時、「赤ちゃんの命もいらない」と言ったことに気づき、心配になったパーブロバナは、たった一人残された末娘のソーニャと一緒に休むことになった。その夜、夫が包丁で眠っているソーニャの首を切ろうとした時、パーブロバナは、飛び起きて「神様。娘を返してください」と叫んだ。すると、夫の顔の皮膚が崩れ落ち、目玉が飛び出し、鼻も口も耳もどろどろになって、床に落ちてしまった。そして、どろどろしたものが床に流れ落ちてしまうと、あとには目のない骸骨が歯をむき出しにして立っていた。パーブロバナは、「夫は12年前に死んでいたんだわ」と悟った。「そのとき、十二年まえとおなじように、まっかなほのうが、ボロジンの家をつつんだ。~中略~ パーブロバナは、二度とおそろしいつみをおかすまいと、つよくくちびるをかみながら、ソーニャの手をにぎりしめた。」というところで終わっていた。

 

当時は、「ゾンビ」映画で有名なジョージ・A・ロメロの初監督作品「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(生ける死者の夜)(1968年)ダリオ・アルジエント「サスペリア」(1977年)も見ていないので、こうしたシーンに免疫がなくて、たいへん怖かったことを覚えている。ただ、1969~70年にかけて週刊少年サンデーに連載された楳図かずお「おろち」「骨」という話があって、これは、死んだ男が死体のまま甦り、再婚した妻に復讐するストーリーだが、「死人の家」を上回る怖さと残酷さがあった。今、大人向けに翻訳された「犠牲」を読むと「死人の家」のようにわかりやすく書かれていないし、希望を持たせるような終わり方でもない事が解った。幸福な一家を襲った突然の不幸についての説明は無く、火事の事も過去の思い出として出てくるだけで、劇的に描かれているわけではない。不思議な陽気さと日常性を持ちながら暗い運命に流されていく一家を描いた小説で、運命のいたずらによって幸福な人生が台無しにされる不条理な怖さを感じる。

 

訳者の武田武彦氏は、「妖女・死人の家」の解説で、「ロシア人には、楽天的で底抜けに明るい気質があり、怪談めいたものでもきわめて陽気で愉快な一面を持っている。」と書いていた。しかし、子供の頃には、陽気で愉快な一面を感じる余裕はなく、ひたすら怖い印象が残ったのである。 続く 

 

注1 原作では15年後の事になっているが、読者の年齢を考慮し、末娘のソーニャを12歳としたのだろう。他にもかなり原作をアレンジしている。 

「怪奇小説傑作集5」表紙 東京創元社

 図版2「怪奇小説傑作集5著者:エーベルス他 訳:原卓也・植田敏郎 1969年 東京創元社

 

 

プロフィール

本田 未禧 (ほんだ・みき)

イラストレーター
学習院大学文学部史学科卒業。デザイン会社「アール・プロジェ」やアニメーション製作会社「シャフト」で働く。

1990年テレビ東京「水木しげるスペシャル」のアニメ美術を担当。1994年キャノンカレンダーコンテスト入賞。日本図書設計家協会に入会。
2004年アニメーション研究同人誌「シネマテック」発行。2006年「JA通信」のイラストを描く。2010年洋泉社のムック本のイラストを描く。
2011年から「東京展」出品。2013年日本グラフィック協会に入会。「現創展」のキャラクターアート部門で金賞受賞。2014年日本図書設計家協会退会。