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映画と文学   
ニコライ・ゴーゴリ「ヴィイ」と「妖婆死棺の呪い」4

今回は、「ヴィイ」を民俗学的に考えていこうと思う。と言っても、民俗学の専門家ではない事とスラブの吸血鬼については、民族や地域で様々な呼び方があって、かなり複雑で語学の知識も必要なので、ここでは簡単にまとめた紹介だけにとどめておきたい。

 

  • 「ヴィイ」と民話

ゴーゴリは、「ヴィイ」の注釈で「この物語はそっくりそのまま民間の伝説である。わたしはこの言伝えに少しも手を加えまいとした。」と書いているが、これは物語にリアリティを持たせるためであり、明らかにゴーゴリが創作した文学作品である事が通説となっている。しかし、河出書房新社の「ニコライ・ゴーゴリ全集2」の解説によると、ソ連科学アカデミー版「ゴーゴリ全集」15巻(1935年)の注釈に次のような民話が紹介されている様である。

 

  1. 若者に棄てられた魔女の娘が復讐のために猫に姿を変えて若者に近づく。
  2. 若者が魔女に飛び乗ると魔女は馬になって走り出すが力尽きて倒れて死ぬ。
  3. 娘の両親の要求で若者は、棺の傍らで詩を読まなければならない。
  4. 若者の周りに死んだ娘や他の死人たちが集まって来て、若者は恐ろしい思いをする。
  5. 娘や死人たちは、若者が書いた線を踏み越える事が出来ないので、三晩目に年をとった魔女の助けを求める。
  6. 老魔女が若者を指し示した時に、雄鶏が鳴く。
    (若者が助かるバージョンと死んでしまうバージョンがあるそうである。)

 

この民話がいつ、どの地域で採集したものかわからないが、かなり「ヴィイ」のストーリーと共通する所が多い。ゴーゴリは、ウクライナやロシアの民話を集めて得た魔女譚をベースとして、それに学生やコサック達の写実的な生活描写を加え、「ヴィイ」を創作したとものと思われる。

西暦2000年の東欧の地図

図版1 西暦2000年の東欧の地図


 

 

  • 百人長の娘はなぜ魔女になったのか?
百人長の娘が、なぜ魔女になったのかゴーゴリは書いていない。しかし、「吸血鬼伝承」(著者:平賀英一郎  中公新書)によるとウクライナでは「妊婦が教会のミサのある段階で式を執り行っている司祭を見ると、生まれて来る子は吸血鬼になる。吸血鬼には二つの魂がある。だから死後もそのうちのひとつが残るわけだ。生きているときも人を殺したり、生きたまま食べたりするし、病気や嵐、降雹を起こす。~中略~死後は、夜ごと真夜中から鶏鳴まで墓を徘徊し、眠っている人の血を吸う。~中略~ここで見られる生きているopyrは超自然的能力を持った呪術師である。それが死後吸血鬼になるわけだ」とある。また、「スラブ吸血伝説考」(著者:栗原成一郎 河出書房新社)には「ウクライナにおいては、人は呪術により、あるいは狼に殺された家畜の肉を食することにより人狼となり、人間や家畜を襲い、死後に吸血鬼になる、という俗信が南スラブ族の吸血表象の影響のもとに土着化した。」とあり、ゴーゴリは、故郷を離れ、ペテルスブルグに居た時も、母親や妹に頼んでウクライナの農民たちの風俗や習慣、信仰などを調べてもらっていたので、そうした話を採集したのかもしれない。死後吸血鬼になる理由は、大きく分けて4つほどある。

 

 

1 悪人、罪人 2 鳥や猫などの動物が死体の上をとび越えた場合 3 宿命によってなる者。聖週間に正式な夫婦でない男女から生まれた人。赤い羊膜をつけて生まれた子供など 4 自殺者変死者だそうだが、百人長の娘は、ホマーに殴られた事が原因となって死んだので、変死とも言えるが、それ以前に魔女であった。私はなんとなく娘が自分の意志で魔女になったというより、生まれつきと言うか宿命的なものがあったように思っていた。しかし、ウクライナの民話で、美しく高慢なために村の男達を寄せ付けなかった娘が、裕福で美貌の青年に魅かれる。その青年は吸血鬼で、そのために娘の両親が急死し、娘も死んでしまうが、墓から生えてきた植物の花の中から再生し、本当に娘を愛していた村の青年と結婚する。といった話があるそうである。ゴーゴリは、百人長の娘についても吸血鬼の青年と係わりがあったような裏設定を考えていたのかもしれない。「ヴィイ」の魔女は、生きている時は、野犬のようになって子供の血を吸い、死後は生きた死体となってホマーに襲いかかることから人狼、吸血鬼の性質を同時に持っていることに特徴がある。この混淆はどの様にして起こったのだろう。そして吸血鬼とは、一体何だろうか。

 

■東欧から広まった吸血鬼信仰 ~キシロヴォ村の実際の事件より~
西ヨーロッパでは、18世紀以前は、人々は吸血鬼の存在を知らなかった。例外はあるが、吸血鬼を表すVampire(バンパイア)という言葉が一般化されたのは、18世紀初頭からであり、それは、1725年のキシロヴォ村の事件によるものである。セルビア人の居住地であったキシロヴォ村は、当時ハンガリー領でオーストリア軍の占領下にあった。その事件は1925年7月25日のウィーン新聞に載り、ヨーロッパじゅうに知られるようになった。

 

 

キシロヴォ村の事件

  1. キシロヴォ村の農夫、ペタル・ブラゴイェヴィチは、1724年9月に死亡した。
  2. 彼の死の10週間後に同じ村の9人が8日の間に相次いで死亡したが、彼らはペタル・ブラゴイェヴィチに夜、血を吸われたからだという。
  3. ペタルの妻が、9日目に、ペタル・ブラゴイェヴィチが夜現れ、
    「靴を出せ」と要求したと証言した。
  4. 村人達がオーストリア軍の司令官と主任司祭のもとに陳情に来た。
    2人は屍体を掘り出す許可を出し渋っていたが、ようやく現地に赴き、墓を暴く事を命じた。
  5. ペタル・ブラゴイェヴィチの死体は、生きているように新鮮で、頭髪、髭も新たに伸び、
    爪は生えかわり、口の中は血でいっぱいであった。
  6. 村人が杭を彼の胸に打ち込むと傷口と鼻と口からおびただしい量の血が吹き出した。
    村人は屍体を、たきぎの山の上に置き、焼却した。

 

同様の事件は、その後も東欧で頻発し、17世紀末から18世紀にかけてドイツ、フランスで吸血鬼に関して哲学、神学、医学などの立場から論考がなされ、膨大な文献が残された。また、文学界でもバイロンの主治医であったジョン・ポリドリ博士が、1819年に世界初の吸血鬼小説※1「吸血鬼」を書き、それ以降、西ヨーロッパでは吸血鬼ブームが起きて、ゴシック小説のテーマとなった。今でも世界的に知られている吸血鬼小説、シェリダン・レ・ファニュ「カーミラ」(1872年)ブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」(1897年)などが発表され、演劇にも影響を与えるようになった。
※1 それまでバイロンなどによる吸血鬼の詩はあったが、小説はこれが最初である。


 

■ 吸血鬼の定義
吸血鬼の定義については、セルビアの民族学者ヴーク・カラジッチ(1789~1864)「セルビア語辞典」(1818年)に記しているが、引用すると長くなるので、省略する。だが、簡単に言うと「吸血鬼とは、肉体を持って墓から帰還し、生きている人間の血を吸って生命力を奪う死者」という事である。しかし、吸血鬼にも様々なタイプがあり、必ずしも血を吸うとは限らない。例えば種村季弘氏が紹介している「死餓鬼」のように、墓の中で生きて、自分の屍体を食べたり、人の首を絞め、直接血を吸うわけではないが、犠牲者が影響を受けて衰弱して死に至る事もある。一種のエネルギーバンパイアと言ってもいいだろう。やはり吸血鬼とは、スラブ地域では「生きている死体」を指すのではないだろうか。


吸血鬼伝承 「生ける死体」の民俗学 表紙

図版2 「吸血鬼伝承 生ける死体の民俗学」著者:平賀英一郎 2000年 中公新書

 

  • 吸血鬼の発生

こうして見ていると吸血鬼の事例が多く報告されたのは、18世紀以降の事なので、新しい概念に思えるが、古代ギリシャにもラミアやエムプーゼといった人の血を求める存在があった。しかし、「これらの半神や怪物はもともと非人間的存在であって、吸血鬼本来の、墓場から蘇って生血を求める人間の死者という定義からはまだいくばくかの距離がある。」種村季弘氏は、「吸血鬼幻想」(河出文庫)の中で書いている。「実際、古代ギリシャには死後腐敗することのない死者について述べた記述はなく、ようやく8世紀に入ってはじめて、蘇生した屍体に関する文献を見ることができる。いうまでもなく、それは中世ギリシャにキリスト教が流入し、したがってまたその影の部分たる悪魔信仰が蔓延した時代である。」(吸血鬼幻想)スラブ世界は正教徒の民族が多い。正教では、「正教会を破門された人間の死体は神罰を受けていて腐敗しない」という考えがあった。また、古代ローマやギリシャでは、火葬が一般的であったが、キリスト教は最後の審判の日、死者達は、墓から起き上がり、神の審判を受けなければいけないため、「キリスト教に改宗することは土葬を受け入れることを意味した」平賀一郎氏は書いている。やはり、吸血鬼信仰とは、異教とキリスト教が混在したもので、スラブ地域に吸血鬼信仰が多いのは、正教の死体の腐敗に対する考え方に因るのかもしれない。続く

 

スラヴ吸血鬼伝説考 表紙

図版3 「スラヴ吸血鬼伝説考」 著者:栗原成郎  1980年 河出書房新社

 

 

次回は、魔女、吸血鬼、人狼などの混質性と水木しげる「ヴィイ」を翻案して描いたマンガ「異形の者」「死人つき」について考えてみたい。

   

 

 

 

プロフィール

本田 未禧 (ほんだ・みき)

イラストレーター
学習院大学文学部史学科卒業。デザイン会社「アール・プロジェ」やアニメーション製作会社「シャフト」で働く。

1990年テレビ東京「水木しげるスペシャル」のアニメ美術を担当。1994年キャノンカレンダーコンテスト入賞。日本図書設計家協会に入会。
2004年アニメーション研究同人誌「シネマテック」発行。2006年「JA通信」のイラストを描く。2010年洋泉社のムック本のイラストを描く。
2011年から「東京展」出品。2013年日本グラフィック協会に入会。「現創展」のキャラクターアート部門で金賞受賞。2014年日本図書設計家協会退会。