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Mikiki タイムトラベル

文学と映画1  若草物語3

  • ルイザ・メイ・オルコットの晩年

1868年10月に出版された「若草物語」と翌年4月出版の「続・若草物語」に続き、1970年3月に「昔気質の少女」(An Old-Fashioned Girl)が出された。この物語は、古風な少女・ポリーを主人公とした作品で、上流社会の生活や女性の生き方を問いかけたものであった。


と言っても堅苦しいストーリーではなく、ポリーのさわやかな優しい性格もあって、少女小説として今でも楽しく読む事が出来る。ルイザはこの本の出版後、4月から翌年の5月まで、末の妹・メイと約1年間のヨーロッパ旅行に出かけた。帰国とほぼ同時に「第三若草物語」がイギリスで出版され、続いて6月にはアメリカでも出版。ルイザは、ボストンの名士となり、婦人参政権運動の会議に出席したり、女権拡大雑誌「ウーマンズ・ジャーナル」に多くのエッセイを寄稿した。

 

こうしたルイザの活躍は家族を経済的な苦労から救ったが、それと引き換えに彼女は健康を害していった。少女の時、フルートランズで過ごした際に冬の寒さで体を痛め、南北戦争下の病院で看護婦時代にかかったチフスの後遺症などもあって晩年は、気管支炎とリューマチに苦しんだ。77年に母、79年に四女・メイが亡くなり、メイの遺児・ルルを引き取って育て、父の看病もしながら、「第四若草物語」を執筆。このため「第四若草物語」は、7年の歳月を経て完成し、1886年10月に出版された。

 

ルイザは、2年後の88年3月6日に肺炎で56歳の生涯を閉じた。それは、父・ブロンソンが亡くなった2日後の事であった。ルイザの一生をふり返ると、貧乏な時代が長かったとはいえ、結果的には少女時代から夢見ていた流行作家となり、晩年は経済的にも恵まれ、成功した人生と言う事が出来るだろう。ルイザは一生結婚せずに、仕事と家族の世話に打ち込んだ。

 

「若草物語」がアメリカで発表された1868年は、日本では明治元年にあたり、「昔気質の少女」の出版は、明治3年、「八人のいとこ」(Eight Cousins)は、明治8年にあたる。しかし、ルイザの小説は、古い時代に書かれたとは思えない新しさがあるため、私は、小学校の図書館で初めて読んだ時、そんな昔に書かれた小説だとは気付かなかった。

 

それらの小説の新しさは、ルイザがボストンの名家の一族である母を持ちながらも、メイドや家庭教師をして働き、母がソーシャルワーカーや家政婦紹介所の仕事をしていたため、最下層の労働者の生活も知っていた事や祖父のメイ大佐や裕福な親戚の温情で上流の生活を経験できた事、また、超絶主義者の父や家庭を守りながらも進歩的な思想を持つ母の影響で、子供時代から多くの文学者や思想家との交流があったため、同時代の女性と比べると因習に縛られず、様々な新しい思想に触れて柔軟な考えが出来た事にあったと思う。


貧乏でも文化を受け入れる心の余裕を常に持ち、演劇、文学、音楽、絵画、ファッションなど様々な芸術や生活を楽しんでいたのではないだろうか。そのため、現在でも共感できる部分が多く、「若草物語」の少女達の生活は今でも多くの人々を魅了している。

 

  • 「若草物語」の翻訳

久しぶりに国会図書館に行って、「若草物語」の最初の明治時代の訳と初めて「若草物語」というタイトルが使われた昭和9年の訳を読み、現代の訳と比較してみた。

 

「若草物語」は、明治39(1906)年、北田 秋圃 しゅうほ によって日本で初めて翻訳された。その時の書名は、Little Womenをほぼ直訳した「小婦人」であった。明治時代の訳なので、四姉妹の名前が、日本の名前になっているのが面白い。

 

まず、マーチ家は、なぜか新藤家である。長女のメグは、マーガレット・マーチなので、新藤菊枝、 次女のジョーは、ジョゼフィンであるが、孝代、あだ名で、と呼ばれている。三女のべスは、エリザベスが本名だが、これは露子、病気がちではかないイメージがあるからだろうか。末のエイミーは、恵美子である。では、近所に住むローレンス老人(ジェームス・ローレンス)の名は、何かというと萩野眞吉、孫のローリー(セオドル・ローレンス)は、俊夫であった。


目次を見ていくと、「第一回 降誕祭の用意」、「第二回 樂しき降誕祭」「第三回 花園家の夜會」など楽しいタイトルが並んでいる。「降誕祭」とはクリスマスの事で、花園家は、原作ではガーデナー家ガーデナー夫人「花園英子」という名で、菊枝孝代に舞踏会の招待状を送っている。本の冒頭で、坪内逍遙が、「はじめての翻訳は、原文に捕らわれがちになるが、素直に楽そうに翻訳なさっていて、その気どりのなさは物語の登場人物の無邪気さと通じる所があって、気持ち良く優雅でやさしく読む事ができて、男の筆ではこうはいかないだろう」という賞賛の序文を寄せている。国会図書館の図書館デジタルコレクションで読むことが出来るが、最初の数行を引用してみた。

 

 


「小婦人」 第一回  降誕祭 クリスマス 用意 ようい

 

孝 贈物 おくりもの もない 降誕祭 クリスマス なんか たくないもんだなあ。」 と たかし 粗末 そまつ 敷物 しきもの の上に 寝轉 ねころ んで 愚痴 ぐち たら々。

きく は古くなった 着物 きもの いま さら やう なが めながら ため いき して
 「 ほん とう 貧乏 びんぼふ いや ね。」
恵 種々 いろいろ うつく しい もの ッている かた たく さん あるのに、 私達 わたしたち やう なんに たない ひと もあるんだもの ほん とう なか 不公平 ふこうへい だと おも ッてよ。」
かな しさうに はな をす々った。 露子 つゆこ すみ はう から 温和 おとな しく、
 「でも 私達 わたしたち には かく とう さん もお かあ さん もあるし、それに 姉妹 きやうだい だッて 這麼 こんな たく さん あるぢやありませんか」

 

「小婦人」ルイザ・メイ・オルコット著 北田秋圃訳 明治39年12月28日発行 彩雲閣

 

 

西村醇子の「児童文学史から見た若草物語」(「若草物語 高田賢一編」2006年 ミネルヴァ書房に収録)によれば、研究者の小谷加奈子は、「北田秋圃訳は、姉妹達の体験談、恋愛に関する事項、手紙などの削除や省略により、ジョーの基本的な性格設定が変わり、個性をほとんど消す結果になっている。そのため原作とのギャップが大きく、翻訳として根付かなかったのだろう。」と指摘しているそうである。とは言え、明治の少女達は、この楽しく夢のある小説をきっと楽しんで読んだだろうと思う。

 

図版1 北田秋圃による「小婦人」の挿絵 著者:ルイザ・メイ・オルコット 

訳:北田秋圃 1906(明治39)年12月28日 彩雲閣

 

明治の訳と比較すると、昭和9年の矢田 世子 せこ は、今読んでもあまり違和感がない。
この本は、第1回目に書いたように監督がジョージ・キューカー、主人公のジョーをキャサリン・ヘプバーンが演じた映画の公開(日本封切り1934年10月4日)に先がけて出版されたものなので、表紙も本文の図版も映画のスチール写真が使われ、「若草物語」というタイトルも映画に合わせてこの時初めて使われた。扉にジョーを描いた挿絵があるが、キャサリン・ヘプバーンに似せてあると思う。この本の最初の章は、「若草物語に就いて」で、「若草物語」の内容と時代背景、著者のルイザ・メイ・オルコットなどについて説明してある。
資料があまり手に入らない時代だったので、この文は知識を得るのに役立ったであろう。

 

続いて「1 四人姉妹」「2お母さん」「3 クリスマス」「4 ローレンス少年」「5 ローレンス氏」「6 舞踏会」という目次が、並んでいる。目次を見ただけでもなんとなく想像がつくが、順番が入れ変えてある。原作では、クリスマスの次に、ガーデナー家の舞踏会が開かれて、そこでジョーローリーは知り合いとなり、足をくじいたメグと供に、帰りは馬車で家まで送ってもらって親交が深まる。その後、ジョーが、ローリーの病気見舞いに行くのだが、矢田津世子訳では、クリスマスの後、ジョーローリーの病気見舞いに行って、その後、舞踏会でローリーと踊ることになっている。そしてこの舞踏会も、ガーデナー家の舞踏会ではなく、ローレンス家の舞踏会になっていて、年上のメグジョーだけでなく、べスエイミーも招待されているところも違っている。つまり映画の脚本に合わせてかなり翻案している所が見られるのである。この訳も最初の数行を引用してみよう。

 

 


「若草物語」 1 四 にん 姉妹 きょうだい

「クリスマスプレゼントのないクリスマスなんて、つまんないわ。」
ジョーは まへ 敷物 しきもの うへ に、 そべった まま つぶや くやうに った。
貧乏 びんぼう ッてほんとにいやねえ」
着古 きふる しの 着物 きもの おと としながらメッグが 溜息 ためいき をついた。
世間 せけん には、どっさり 綺麗 きれい なものを っているひとがあると おも へば、一 ぽう なんにも って
ないひともいるなんて、 随分 ずいぶん 不公平 ふこうへい はなし だわ。」
ちい さなエミーまでが はな らすのだった。
「でも、 わたし たちはお とう さんや、お かあ さんがいらッしゃるし、その うへ 姉妹 きやうだい まであるんだから」
片隅 かたすみ からべスは、 現在 げんざい 境遇 きやうぐう にさも 満足 まんぞく しているらしく、 なぐさ がお ふのだった。


「若草物語」ルイザ・メイ・オルコット著 矢田津世子訳 1934(昭和9)年9月20日発行 少女畫報社

 

 

この本の「4 ローレンス少年」では、まだ友達になる前、ローリーが祖父に頼んで四姉妹の家に、クリスマスの晩、お菓子、花などを差し入れする時の心境が描かれていて興味深い。姉妹達がクリスマスに演じる悲歌劇「妖婆の呪い」の配役や音楽指揮、舞台監督などのプログラムが載っている事も特徴である。

 

矢田津世子訳・編の「若草物語」は、本人が序文で「本書は、この二部からなる長編を読みやすい手頃な物語として纏(まと)めあげたものである」と書いているように、映画に合わせて刊行したダイジェスト版と言うか、映画のノベライズに近いものであろう。

 

 

図版2 「若草物語」扉絵  ジョーの顔がキャサリンへプバーンに似ている。

 

 

図版3 「若草物語」図版 風邪をひいたローリーをお見舞いするジョー
(映画のスチールを使用してある)

 

図版2、3供に「若草物語」著者:ルイザ・メイ・オルコット 訳・編:矢田津世子 
装幀・扉 1934(昭和9)年9月20日発行 少女畫報社

 

 

こうして読んでいくと、明治と昭和の中間にあたる大正時代の訳も調べたくなってきた。「若草物語」の研究文などを読むと、1923(大正12)年に内山賢治訳の「四少女」が出ているそうである。次回その報告と「若草物語」の映画について書きたいと思う。

 

プロフィール

本田 未禧 (ほんだ・みき)

イラストレーター
学習院大学文学部史学科卒業。デザイン会社「アール・プロジェ」やアニメーション製作会社「シャフト」で働く。

1990年テレビ東京「水木しげるスペシャル」のアニメ美術を担当。1994年キャノンカレンダーコンテスト入賞。日本図書設計家協会に入会。
2004年アニメーション研究同人誌「シネマテック」発行。2006年「JA通信」のイラストを描く。2010年洋泉社のムック本のイラストを描く。
2011年から「東京展」出品。2013年日本グラフィック協会に入会。「現創展」のキャラクターアート部門で金賞受賞。2014年日本図書設計家協会退会。