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ハロウィーンについて🎃

 9月に入ったらまだ暑いのにもかかわらず、街角にハロウィーングッズが並んでいた。昨年のハロウイーンの盛り上がりはすごく、渋谷に行けば様々に仮装した人達が居たし、私の地元の阿佐ヶ谷や高円寺商店街でも、妖精や猫の衣装をつけた子供達を見かけた。
日本の風土とは異質なものだと感じていたがいつの間にこんなに定着したのだろうか。

 

ハロウィーンのイメージ

 

しかし、これは日本だけでなく、世界的な傾向のようだ。ウィキペディアによれば、日本でのハロウィーンの始まりは、1970年代にキディランド原宿店が関連商品を販売し、1983年10月に販売促進の一環としてハロウィーンパレードをしたのが最初だそうなので、かなり早い時期からやっているようだ。東京ディズニーランドでは、1997年からディズニーのキャラクター達と仮装した入園者達が園内をパレードする「ハッピーハロウィーントワイライトパレード」を始めた。また、欧米系の住民や観光客が多い小笠原村父島や長野県白馬村は、2000年代にハロウィーンのイベントを開始したそうである。このように日本では、宗教的な意味は薄く、商業目的や町おこし、芸術祭として行われているようだ。


 

■ 映画「白い家の少女」を見て
私が初めてハロウィーンを意識したのは、「白い家の少女」という映画を見たときであった。これはニューヨーク郊外の閑静な港町を舞台として、13歳の少女が生きるために犯罪を重ねていくといったサスペンス映画である。主人公の少女・リンを演じたのは、当時14歳だったジョディ・フォスターであった。

 

「白い家の少女」パンフレット

「白い家の少女」パンフレット 発行権者:コロムビア映画株式会社
(発行年月日書いてありません)

 

これは攻撃的な大人達との会話のやりとりや少女の心理表現などかなり演技力のいる役で、映画の出来はジョディ・フォスターの魅力に支えられているといった感じがあった。全体の印象としては、初冬の田舎町の雨にけぶる風景やテーマ曲に使われたショパンの調べなどが静かで、ロマンティックな雰囲気を出していた。

 

この映画の冒頭部分で、リンが一人でケーキにロウソクを灯している。誕生日とハロウィーンが同じ日なのである。そこに家主の息子のフランク・ハレット(マーティン・シーン)が黒いマスクを付け、カボチャのちょうちんを持って「トリック・オア・トリート」と言いながら登場する。

 

リンは、イギリスからこの土地に来たばかりで、ハロウィーンを祝った事はないという設定のようだ。そこで青年はアメリカのハロウィーンの習慣について説明する。リンの手作りと思われるブルーのロウソクが灯ったケーキ、お化けの衣装をつけた子供たちが歩く秋の夜の風景、「トリック・オア・トリート」(いたずらかごちそうか)という聞き慣れない言葉といい、「アメリカにはこんな風習があるのか」と不思議な気持ちがしたものである。この映画の日本公開が1977年なので、私がテレビで見たのは80年代に入っていたかもしれない。それまでもレイ・ブラッドベリ「何かが道をやってくる」のようなハロウィーンを扱ったSF小説を読んでいたが、全く知らない事は文字を読んでも場面を想像出来ず、あまり記憶に残っていなかった。やはり短いシーンとはいえ、映画で見た印象は大きかったのではないかと思う。

「何かが道をやってくる」表紙

「何かが道をやってくる」著者:レイ・ブラッドベリ 訳:大久保康雄 
1964年 東京創元社

「ハロウィーンがやってきた」表紙

「ハロウィーンがやってきた」 著者:レイ・ブラッドベリ 訳:伊藤典夫 
1975年 晶文社

 

  • ハロウィーンの語源

11月1日は、カトリックでは「万聖節」(Solemity of All Saints)である。これは8世紀の半ばに教皇・グレゴリウス3世がこの日を殉教者の祝祭としたという説が有力で、「全ての聖人の日」あるいは「諸聖人の日」とも言う。続く11月2日は「万霊節」(死者の日 All Souls Day)と言って、これは死者、特に煉獄で苦しんでいる死者のために祈りをささげる日とされている。ハロウィーンは、10月31日なので、「万聖節」の前夜にあたり、「万聖節」の旧称である「オールハロウズ(All Hallows)」の前の晩である「ハロウ・イヴ(Hallo・Eve)がなまってハロウィーン(Halloween)となったようである。こうして見るとハロウィーンはキリスト教、特にカトリック的な色彩が強いように思えるが、ハロウィーンの習慣はキリスト教布教以前から存在していてその起源は古代ケルトの祭りからきていると言われている。

  • 古代ケルトのサムハイン祭

ケルト文化は、ヨーロッパに於いて2500年以上の歴史を持ち、主にアイルランド、スコットランド、イギリスのウエールズ、コーンウォール、ブルターニュなどヨーロッパ西端周辺部はケルト文化の影響が大きい。ケルト人は自然崇拝の多神教で文字を持たず、神話は口頭で伝えてきた。そのために謎の部分が多く、紀元前1世紀から他民族の支配下に入り、文化は衰退していった。ケルト人は10月31日の日没から3日間にわたって「サムハイン祭」を行っていた。

 

「サムハイン祭」は、夏の終わりであり、冬の始めである時期にあたり、家畜が屠殺され、収穫物が集められた。人々はごちそうを食べ、その間に借金の返済と裁判が行われたそうである。また、ケルト人は死後の世界を信じ、この世とあの世の境の扉はサムハイン祭の時に開かれ、死者が生家に帰って周囲を徘徊し、妖精や精霊達が魔力を発揮して人々に危害を加ると信じていた。カトリックが11月1日を万聖節、2日を万霊節と定めたのもこうした異文化をキリスト教に取り入れようとした試みだったかもしれない。そのため、ハロウィーンは陽気な収穫祭と死を見つめる暗い神秘的な祭りといった性格、そしてケルトの異教的な歴史とキリスト教的な歴史の両面を持っているのである。

 

■ イギリス・アイルランド・スコットランドのハロウイーン
ヨーロッパ大陸の大部分では、万聖節万霊節には先祖の墓を訪れたり、教会に行き、静かに過ごす事が定着していて、ハロウィーンの行事はあまり行われていなかった。ケルト文化の影響が強いイギリス、アイルランド、スコットランドでは16世紀になる頃には万聖万霊節とは別にハロウィーンを祝っていたようである。16~19世紀の終わり頃までは、ハロウィーンの時は焚火を焚いて煉獄から来る霊のために道を照らした。焚火は、地域によっては魔女や邪悪な妖精から身を守る目的としても焚かれた。また、占いやリンゴを水に浮かべて口で取る「アップル・ボビング」というゲームをした。

 

かつてイギリス諸島では「ソウリング」という行事があって、万霊節前夜に子供達が詩を唱えながらソウルケーキ(干しブドウを十字架型に飾った丸いケーキ)や食べ物、飲み物などをねだったそうである。マン島では10月31日の夜、若者達がカブをくり抜いたランタンを持ち、家々を訪ね寄付を募った。しかし、19世紀末には子供や貧しい大人のものとされ、すたれていったようだ。
「白い家の少女」リンがイギリスでハロウィーンを祝った事がなかったのも、そうした行事が行われなくなった後だったからだろう。

  • アメリカにわたったハロウィーン

19世紀の中頃、1845~49年までアイルランドの人々の主要作物であるジャガイモに疫病が発生し、枯死する「ジャガイモ飢饉」が起こった。このジャガイモ飢饉によって100万人以上の餓死者が出て、人口の10~20%がアメリカ、カナダ、イギリス本島、オーストラリアなどに移住した。アメリカに渡った人々の中には成功して富を築く者もいた。ケネディ家の祖先がこれにあたり、また小説であるが「風と共に去りぬ」オハラ家もアメリカ南部で大きな農場を開いたという設定になっている。スカーレット・オハラの父が守って来たタラの農場の「タラ」という地名は古代アイルランドの首都の名前である。スコットランドからの移住者も多く、アイルランド、スコットランド系の移民が中流階級を形成し、ハロウィーンの習慣がアメリカに伝えられた。

 

19世紀後半には家族でハロウィーンパーティを開いたり、占いやゲームをして遊んだようである。1920~30年代にかけては若者によるハロウィーンの夜のいたずらが激化したため、その代案として市民団体がハロウィーンパーティやパレード、コンテストなどを提供する事になった。しかし、1929年の大恐慌の影響で大きなイベントを催す資金に苦労した町が、住民の間で資金をプールし、「家から家へ」のパーティを奨励するようになった。これがアメリカの行事として定着していく仮装した子供達が「トリック・オア・トリート」と言いながら家を廻り、お菓子をねだるといった習慣になったのではないかと思われる。

  • カボチャのランタンについて

カボチャのランタンは、アメリカのハロウィーンの象徴になっているが、イギリスやスコットランドでは、ハロウィーンのランタンはカブで作られていた。

 

アメリカ原産の鮮やかなオレンジ色のカボチャには、ハロウィーンの習慣が入って来る以前から顔が彫られていたそうだが、カボチャに顔を彫り、中にロウソクを灯してハロウィーンの時に飾るようになったのは19世紀末から20世紀初頭にかけての事だという。これをジャック・オー・ランタン(ランタン持ちの男)と呼ぶ。悪魔の裏をかいて死んでも地獄に落ちない約束をとりつけた鍛冶屋・ジャックは生前の行いの悪さから天国にも入れずにランタンを持ってこの世をさまよっているそうである。このランタンを灯すと、善霊を呼び寄せ、悪霊を遠ざけると言われている。

 

「ハロウィーンの文化史」 表紙

「ハロウィーンの文化史」 著者:リサ・モ―トン 訳:大久保庸子 

2014年 原書房

 

 

■ ハロウイーンが描かれた映画

 

「白い家の少女」以外にもハロウィーンのシーンが出て来る映画を私が見た中から紹介する。
★ 「毒薬と老嬢」 監督:フランク・キャプラ(1944年米公開)
エビイマーサの裕福な老姉妹が善意から人々を毒殺して殺してしまうといったブラックコメディ。オープニングから薬を窯で煮たり、箒で空を飛んだりする魔女の絵や黒猫、蝙蝠、カボチャのイラストが描かれてハロウィーンぽいので、そうした季節を表しているのだろう。仮装した子供達に老姉妹が、お菓子や顔をくり抜いたカボチャをわたし、「ハロウィーンっていいわね。子供たちが喜ぶもの」というシーンが見られる。

「毒薬と老嬢」DVDジャケット

「毒薬と老嬢」DVD 発売元:ファーストトレーディング

 

 

★ 「若草の頃」 監督:ヴィセント・ミネリ( 1944年米公開)
1903年のセントルイスを舞台とし、古き良き時代の家庭生活と恋愛を描いたミュージカル映画。スミス家の次女エスター(ジュディ・ガーランド)が主人公だが、妹・アグネス(8~10歳ぐらい?)と5歳の妹・トゥーティ(マーガレット・オブライエン)が居て、この二人がハロウィーンの晩、骸骨と案山子の様な衣装で出かけて行く。近所の男の子達が焚火を焚いて、「イヤな奴」である大人に小麦粉をぶつけるといったいたずらをする。「トリック・オア・トリート」とは言っていない。ハメをはずしていたずらするだけで、お菓子はもらっていないのである。しかし家には、メイドさんが焼いたケーキとお姉さんが買ってきたアイスクリームが用意されている様である。

「若草の頃」DVD ジャケット

「若草の頃」DVD 発売元:ファーストミュージック株式会社 

 

 

「ハロウィーン」監督:ジョン・カーペンター(1978年米公開)
ハロウイーンの晩に殺人鬼(ブギ―マン)が現れ、次々と人を殺していくといったその後のホラー映画の基本となった作品で、続編やリメイク作品が多く作られた。監督のジョン・カーペンターが作曲したテーマ曲が不安感を盛り上げる。オープニングでもカボチャのランタンが使われている。子供が夜、テレビでハワード・ホークス製作の「遊星よりの物体X」(1951年公開)を見ているという状況が羨ましく、ノスタルジックさを感じる。

 

「E.T.」監督:スティーブン・スピルバーグ (1982米公開 2002年再編集)
[E.T]でハロウィーンは効果的に使われている。ハロウィーンの夕方、子供達は、E.T.に白い布をかけ、幽霊に仮装させて母親に見つからないように森に連れて行く。E.T.は宇宙の仲間とコンタクトを取る。自転車に乗った少年エリオットとE.T.が、青い月を背景に空を飛ぶシーンは、幻想的で魔女が箒で空を飛ぶシーンを連想させる。

 

★ 「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」監督:ヘンリー・セリック(1993年米公開)
ティム・バートンが原案・脚本を担当したアニメーション映画。ハロウィーンタウンに住む骸骨のジャックは、クリスマスに憧れ、サンタの代わりにクリスマスプレゼントを配って歩いた。ところが気味の悪い物ばかりなので子供たちが怖り、世界中がパニックになった。軍の大砲に撃ち落とされたジャックだが、監禁されていたサンタを助け、サンタクロースは、プレゼントを子供達が喜ぶ物に取り替えていった。この出来事で、ジャックは、つぎはぎ人形・サリーの純粋な愛に気付く。恋愛映画ともいえる作品である。

「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」 絵本表紙

ディズニー名作ゴールド絵本20 

ティム・バートンの「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」

文:森はるな 構成:斎藤妙子 装丁:青木澄江 2004年 講談社

 

 

★ 「エド・ウッド」監督:ティム・バートン (1994年米公開)
史上最低の映画監督と言われるエド・ウッドの伝記映画。エド(ジョニー・デップ)は、年をとってモルヒネ中毒になり、仕事がなくなったドラキュラ役者のベラ・ルゴシ(マーティン・ランドー)を積極的に自分の映画に出演させる。エドハロウイーンの晩にルゴシの自宅に招かれ、テレビでヴァンパイラの解説による映画「恐怖城」を見ているとそこに仮装した子供たちが家々を廻って来たので、ベラがドラキュラのマントを着て脅かすシーンがあった。

「エド・ウッド」DVDジャケット

「エド・ウッド」DVD 発売元:ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント

 

 

「スリーピー・ホロウ」監督:ティム・バートン (1999年米公開)
ワシントン・アーヴィング(1783~1859年)は、首を切られたドイツ軍騎士が人々を襲うといった民話をもとにして「スリーピー・ホロウの伝説」を書いた。この作品は、その小説を映画化したものだが、かなり原作をアレンジしてある。村で最初の犠牲者であるギャレット一家が騎士に襲われるシーンで、カボチャの頭をつけた案山子が立っているのでハロウィーンの季節である事が解る。

「スリーピー・ホロウ」パンフレット

「スリーピー・ホロウ」パンフレット 2000年 発行権者:日本ヘラルド株式会社

 

 

おそらく50~60年代にアメリカで子供時代を過ごした人は、仮装をして家々を廻り、お菓子をもらったり、テレビでSFやホラー番組を見たりして楽しいハロウィーンを過ごしたにちがいない。この文を書くためにいろいろな映画や文学を見ているとその楽しさや思い出を少しながら理解する事が出来たような気がした。恐怖や目に見えない霊的な世界を楽しむ事は精神の成長に必要で、日本のお盆ではそこまでのいたずらは出来ないので、その時代のアメリカの子供達を羨ましいと思う。現在、アメリカのハロウィーンがイギリスに逆輸入され、世界の多くの国ではやっているのは、宗教が衰退していく中、人々が霊的世界に渇望している現れかもしれない。

 

 

プロフィール

本田 未禧 (ほんだ・みき)

イラストレーター
学習院大学文学部史学科卒業。デザイン会社「アール・プロジェ」やアニメーション製作会社「シャフト」で働く。

1990年テレビ東京「水木しげるスペシャル」のアニメ美術を担当。1994年キャノンカレンダーコンテスト入賞。日本図書設計家協会に入会。
2004年アニメーション研究同人誌「シネマテック」発行。2006年「JA通信」のイラストを描く。2010年洋泉社のムック本のイラストを描く。
2011年から「東京展」出品。2013年日本グラフィック協会に入会。「現創展」のキャラクターアート部門で金賞受賞。2014年日本図書設計家協会退会。